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『ドレミを選んだ日本人』を読んだけど、選ばれなかった日本の音は自分のなかにどう生きているのかそれとも生きていないのか

千葉優子『ドレミを選んだ日本人』(音楽之友社、2007年)を読んだ。

ドレミを選んだ日本人

ドレミを選んだ日本人

文明開化後、明治・大正期に、日本人はどうやって西洋音楽を受け入れていったのか? をまとめた本。官学でどういった取り組みをしてきたという教科書的な歴史だけでなくて、庶民がどういった音楽を聴いていたか? どんな音楽会が開かれていて、人気だったのはどういう音楽で、どういうレコードが制作されて売れていたのか? に注目して書かれているのがすごく良い。日本人が音楽に対して、もともとどんな感覚を持っていて、それが西洋音楽を受け入れていくうちにどう変化していったのかがわかる。

西洋音楽的な感覚、等拍のリズムと音階と和声が備わった音楽は、もともと日本にあったものではないから、明治の初期、日本人はそういった音楽を演奏することもできなかったし、心地よいとも思わなかった。しかし、いまの僕たちは西洋音楽をふつうに音楽だと思っているし、さらに西洋音楽にアフリカ由来の感覚が加わったブルーズやジャズ由来のポピュラーミュージックを最もたくさん聞いていて、純邦楽は日常的にはほとんど聞かない。じゃあ、すっかり音楽の感覚も欧米かというと、民謡みたいな合いの手「あ、それ」とか入れるのすごくふつうにナチュラルにできるけど、R&Bの楽曲にちゃんとノレるかというといまひとつ不安だったりする。自分の中にあるリズム感や音楽に対する感覚と、日常的に耳にしたり好んでいる音楽が必ずしもちゃんと合っていないような気がしてならない。

たとえば、ブラックミュージシャンが自らのツールに返るみたいなことを言って古いブルーズを演奏したり、アイルランド民謡に根ざした音楽をやってるグループがあったり、自分たちの感覚を遡ることができることがカッコイイなあとおもったりするんだけど、じゃあ日本人も日本のルーツに根ざしたポピュラーミュージックを、というとエンヤトットとか沖縄に行くとかチンドンや大正の演歌師を発見するというのはあるけど、それがいまの自分たちの感覚と陸続きになっているようには実は思えない。南米でブームのニューリズム! みたいな外部のものを取り入れている感じがしてしまうのだ。

むしろ非等拍なリズムや和声の否定、倍音がキレイでない音色の感覚など、フリージャズやノイズミュージックのなかに、純粋に日本人的な音の感覚が生きているのではないかと思ったりする。

なんか本の感想からずいぶん離れてしまったけど、著者はお正月になると必ずかかる「春の海」の作者として知られる箏曲家・宮城道雄の記念館で資料室室長を務めるなど、もともと純邦楽畑の研究をされていたようで、この本もむしろ日本人が「ドレミを選んだ」ことによって、選ばれなかった純邦楽に何が起きたのか? という本でもある。「春の海」は、昭和5年(1930年)の初演では「西洋音楽の影響をもろに受けた音楽」とされてたそうで、これを聞いて「日本の伝統音楽っぽい」よりも「西洋音楽っぽい」を強く感じるような音楽感覚ってどういうのだったんだろう、とおもう


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