in between days

表参道で働くシニアのブログ

小沢健二はなぜ帰ることにしたのだろう……

(ブログの下書きに入れっぱなしにしていた記事をいまさら公開してみる)

オザケンのライブ、周りの感想をみるかぎりだいたい絶賛なかんじだ。とはいえ、小沢健二ファンの自分に見えているのは小沢健二ファンの感想であり、あまり知らないで行ったひとには不評なのかもしれないけど、ずっとオザケンファンをやってきた人たちが、今回のライブを絶賛しているというのはなかなかに興味深い。なぜなら、ライブ直後にもちょっと書いたけど、今回のライブで、小沢健二は旧曲よりも新曲を大きくアピールし、サウンドやアレンジも大きく変え、これまではわかりやすいリアルな世界に沿っていた詩世界もかなり難しい言葉をどんどん入れて観念的、あるいは寓話的な世界観を強く押し出している。これだけの変更を加えながら、古くからの信者を納得させるのはなかなか容易ではない。一般的に古いファンは、どれだけアーティストを信頼しているとはいえ、それは自分たちが聞きたいものを聞かせてくれるときに限っての話であり、満足させてくれない教祖には冷たいものだ。実際にオザケンのファンといえども、すべてがすべて「朗読」を素晴らしいと思っているわけではないだろう。

小沢健二のライブ・コンサートに行ってきました。そして帰ってきました。 - in between days

上記の記事をライブ直後に書いたあと、これを読んだひとにときおり「で、ライブはけっきょく良かったの? 悪かったの?」と聞かれる。ははは。笑ってごまかすことでもないが、ぼくは微妙なかんじで判断を避けている。僕はまあわりと冷淡な信者なので、どんなサウンドに寄ってくれてもいいけど、良かったか悪かったかといえば、良かった。良かったなあとおもって会場をあとにした。でも、絶賛されていると「そうかなあ」という気持ちもある。今回のサウンドや新曲はすべて「魔法的」という言葉のもとで繰り広がられるトータルコンセプトのライブであり、それは成功しているとおもった、くらいのなんというかちょっと引いたところに立ちたいような気持ちになる。

なにが判断を留保させているのかというと、このひとはなぜ急に寓話の世界を大きくフィーチャーするようになったのか? ということがよくわからないようであり、なんかわかるようでもあり、それは良いのことのようでもあり、どうなんだろう? という疑念もある。とはいえ、雑誌「子どもと昔話」で寓話「うさぎ!」の連載がスタートしたのが2005年で、翌年にリリースされたアルバムは、このサントラという触れ込みだったようにおぼえている。なので、小沢健二は寓話的な世界をもう11年も模索してきたということなのかもしれない。

Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学

Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学

このアルバムはインストだったけど、曲タイトルを見ると、今回のライブでの新曲のタイトルに雰囲気が似ているようにもおもえる。ひょっとして、このときはまだ、そういった寓話的な世界がまだ歌詞としては実を結んでいなくて、それで次にやったライブツアーはキャリアの総決算みたいなものになり、ただ、少しだけ新曲もあり、そしてここにきてようやく新しい寓話的な詩世界がしっくりくる新曲がどんどん生まれてきて、新しいサイクルに得入した、というそういうものだったのだろうか? と考えたりもするけど。

前の記事にも書いたけど、今回の小沢健二のコンサートをひとことで表すなら、絵本「かいじゅうたちのいるところ」のようなものだったなあというのが、ぼくの感想のすべてだ。

この絵本の解釈にはいろいろあるけれど、基本的には典型的な「行きて帰りし物語」というファンタジーの定石で、主人公がどこか異世界に行き、この世のものならぬ体験をし、そして元の場所に戻ってくる。戻ってきたとき、すべてはまったく同じように見えて、出掛けたときからほとんど時間は経ってないようですらあっても、実は主人公はどこか変わっている(成長している)。

コンサートの最後に小沢が「日常に帰ろう」と言ったとき、僕は二重にびっくりしてしまって、それは今まで見てきたコンサートが「かいじゅうたちのいるところ」のようだなとずっと思っていたら、やっぱり最後はスープを食べに帰るのか! とそのシンクロに驚いたことと、もうひとつは小沢健二は果たしてそういうことを言う人だったかな? と疑問におもったからだった(実際には前のコンサートの最後にも言ってたらしい、忘れてたけど)。

小沢健二のこれまでの音楽のベースは常に「旅」にあるとおもってきた。終わることのない旅。ボヘミアン、ホーボー、ビート、トラヴェラー。「僕らが旅に出る理由」という曲を、友部正人「どうして旅に出なかったんだ」のアンサーソングとして聞く。あるだけの毛布やマフラーと車に乗り込み夢を見る「地上の夜」や、夜行列車で荒れた海をわたる「ブルーの構図のブルーズ」。小沢健二の楽曲には、世界中のどこかの町から町へと旅をし続けているようなイメージがある。「エクレクティック」でニューヨークに引きこもったあと、旅の先に選んだのが寓話の世界で、そしてここでようやく明確に「帰る」ことをメッセージの中に折り込むことにしたようだ。

このツアーは1回しか見てなくて歌詞をちゃんと覚えてないけど、「現実と幻想が重なりあう場所で」といったような歌があったように覚えていて、それがすごく印象に残っている。音楽家として、つまりひとつの寓話の世界を作り出すことを職業としているひとが、現実の世界について何か影響力を与えられるとしたら、それは多くのヒッピーやパンクスのようにメッセージ自体を声高に歌うことではなく、歌を聞きにくる人たちをもれなくすべて寓話の世界に連れ出して、そこで自分自身が変わるような経験を与えたうえで、現実の世界に帰ること、そういうことなのではないか。

リアルの世界をリアルに旅してきたボヘミアンのおっさんがたどり着いたのが、寓話と現実が重ね合わせになった場所であり、行きて帰りし物語でいう「帰りし場所」を見出したということは、ひとつの成長であるのか、正しい戦略であるのか、それともひょっとすると後退であるのか。この寓話的な世界観を、小沢に子供ができたことと重ねあわせてとらえる見方もあるけど、ぼくはそれは主要な理由ではないとおもう。ただ、なんだかよくわからない、というのが現時点での感想です。

“1976”

“1976”

かいじゅうたちのいるところ-オリジナル・サウンドトラック

The Hobbit: International Edition