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表参道で働くシニアのブログ

恋しくて 再考

前回の「恋しくて」のエントリをポストした後でずーっと考えてたんだけど、あの甘いアレンジってのは必然じゃなかろうか、というか、そうだったからこそあの曲はヨカッタんじゃないかという気がしてきた。



だって、あの曲があの曲が伝えうるもっともヘヴィなスタイルで歌われていたら、それはそのヘヴィさを共有するひとしか聴けないような曲になっちゃうんだないだろうか。ヘヴィな感情をそのまま吐露するのではなく、ちょっとオブラートに包んでおく。ヘヴィな恋愛体験の渦中にあるひとならそのオブラートを自分で破ってコアを掴むだろうし、そうでないオレのような不感症はちょっと愉快な失恋ラブソングとしてポップさを楽しめばいい。

オザケンの楽曲には、そういうところがある。と指摘したのは実はオレじゃなくって先日のロクジェの打ち合わせでアラカーさんやリサちゃんが言ってて、そうだよなあと納得したわけだが、だからこそオザケンナイトなんてイベントが軽々しく成り立ってしまう。思い入れたっぷりに聴きこんでもいいし、ポピュラーソングとしてガンガン聞き流してもいい。とくにこの「恋しくて」あたりはそういう傾向が強い。

シリアスな『犬は吠えるがキャラバンは進む』を『dogs』なんて身もフタも無いタイトルで再発したり、熱狂的な1995年のシングル集に『刹那』なんてタイトル付けてこれまた違う意味で身やフタを無くしたり、両作とも平野敬子(→Keiko Hirano Profile)の作品集といってもいいような装丁で、それぞれの作品が発表当時に持っていたイメージを脱臭してしまったり、ってのもそういう意味がちょっとばっかりあるような気がした(でもそればっかりじゃないと思われ。と確信がないのでちょっと逃げとく)。