瀬田貞二著『絵本論 (福音館の単行本)』を今まで何回かにわたって紹介してきましたが、今回は最後に、瀬田先生がこの本で紹介している日本人作家についてまとめてみました。といっても現在の私たちが思い描くようないわゆる「絵本作家」は登場しません。主に戦前、大正デモクラシー時期から戦争直後にかけて、童画や挿絵も描いた(前衛)芸術家の方たちが取り上げられています。
大正デモクラシー期には、「赤い鳥」「金の船」「コドモノクニ」「子供之友」などの児童向けの教育雑誌が次々と創刊され、日本の児童文化が花開いた時期でもありました。そこでは大人向けの作品を作った小説家や作曲家が童話や童謡を書きましたが、同じように絵の世界でも画壇をドロップアウトしたり社会運動に身を投じた画家たちが「童画」を描いています。
- 雑誌「赤い鳥」 - 福岡大学図書館報 No.50(1988.4)
- 赤い鳥 - Wikipedia
- コドモノクニ
ですので、ここまでに紹介した欧米の絵本作家とは少し趣の違っています。ことにこの時期には太平洋戦争がありますので、画家として油が乗り切った時期に絵の制作どころではなく、迫害されたり逮捕されたり夭折したりという作家としては不遇をかこった方々が多数いらっしゃいます。
戦前の絵本/童画の変遷
大正期を中心とした童画界の動きを、簡単な年表にまとめました。
- 1894年(明治27年)
- 巌谷小波が「日本昔話」シリーズで童話の再録をはじめる。
- 1895年(明治28年)
- 博文館から巌谷小波編集「少年世界」創刊。
- 1904年(明治37年)
- 大阪で「お伽絵解・こども」創刊。最初の絵雑誌。
- 1906年(明治39年)
- 巌谷小波の主筆による絵雑誌「幼年画報」創刊。
- 1909年(明治42年)
- 絵雑誌「幼年の友」はじまる(前身は「家庭教育・絵ばなし」)
- 1914年(大正3年)
- 羽仁もと子編集による絵雑誌「子供之友」創刊。
- 1918年(大正7年)
- 鈴木三重吉主宰の「赤い鳥」創刊。創刊号の表紙は清水良雄。
- 1919年(大正8年)
- 童話童謡雑誌「金の船」創刊。表紙を岡本帰一が手がける。後に「金の星」と改める。
- 1919年(大正8年)
- 小川未明による「おとぎの世界」創刊。終刊まで初山滋が表紙を手がける。
- 1922年(大正11年)
- 「コドモノクニ」創刊。創刊号の表紙は武井武雄。第2号から岡本帰一が絵画主任となる。
- 1923年(大正12年)
- 「コドモアサヒ」創刊。
- 1923年(大正12年)
- 日刊「アサヒグラフ」で「正チャンの冒険」の連載がはじまる(後に本紙)。
- 1925年(大正14年)
- 武井武雄の初の個展で「童画」という言葉が初めて用いられる。
- 1927年(昭和2年)
- 武井武雄、初山滋、岡本帰一、清水良雄、川上四郎、深沢省三、村山知義らが「日本童画家協会」を結成する。
- 1927年(昭和2年)
- 「キンダーブック」創刊。清水良雄が絵画顧問をつとめる。
- 1929年(昭和4年)
- 童謡人気の衰退に伴い「金の星」終刊。「赤い鳥」もいったん休刊。
- 1930年(昭和5年)
- 岡本帰一が腸チフスにより急逝。享年42歳。これにより「コドモノクニ」の絵画主任は武井武雄と清水良雄の両氏となる。
- 1931年(昭和6年)
- 「少年倶楽部」で漫画「のらくろ」の連載のはじまる。
- 1932年(昭和7年)
- 「新ニッポン童画会」結成(安泰、松山文雄、安井小弥太ら)。
- 1935年(昭和10年)
- 「コドモノクニ」の画家の顔ぶれが変わり、戦時色が強まる。
- 1936年(昭和11年)
- 鈴木三重吉の死により「赤い鳥」終刊。
- 1937年(昭和12年)
- 柳瀬正夢が「子供之友」に夏川八郎として描きはじめる。
- 1941年(昭和16年)
- 日本少国民文化協会創立。日本童画家協会および新ニッポン童画会解散。
- 1943年(昭和18年)
- 用紙制限により「子供之友」休刊。
- 1944年(昭和19年)
- 「コドモノクニ」休刊。
- 1945年(昭和20年)
- 終戦
- 1956年(昭和31年)
- 福音館書店「こどものとも」創刊。
戦後になって「こどものとも」誌で長新太さんや松谷みよ子さんが活躍しはじめたことで、ようやく我々がいま現在知っているような絵本の世界が日本にも生まれてきました。なお初期の「こどものとも」誌では瀬田先生もずいぶん翻訳や作話を手がけられています。
日本童画家協会について
『絵本論』では作家個々人の人となりに焦点が当てられているため、集団としての童画作家の運動についてはあまり語られていません。簡単に紹介しておきますので、上記の年表とあわせて前提知識としておさえておくとよいでしょう。
日本童画家協会
武井武雄、初山滋、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、村山知義、清水良雄ら近代童画揺籃期に活躍した7人によって結成。 日本橋丸善ほか大阪三越などでも童画展を開催し童画芸術の発展と啓蒙に貢献したが、時局緊迫に伴い(戦争)情報局の要請により、「新ニッポン童画会」「童心美術協会」などとともに「日本少国民文化協会」に統合され解散
「童画」という用語を使いはじめたのは年表にもあるように武井武雄氏ですが、本書では瀬田先生は武井氏にページを割いていません。武井氏の略歴などは下記を参照にしてください。
それでは、瀬田先生が紹介している作家を個別に見ていきましょう。時代状況の変遷がわかるように、本に掲載されている順ではなく、年齢順に紹介していくことにします。
岡本帰一(1888〜1930)
見出しが「子どもたちのための最初の画家」と付けられています。
大正末から昭和初めにかけて子どもだった人なら、岡本帰一の名を知らない者はないでしょう。帰一は、事実、当時の子どものための絵の第一人者であったばかりでなく、子どものための絵という新しい分野をみずからつくりあげ、しっかりすえつけた画家でした。
「金の船」の絵画主任として注目され、続いて「コドモノクニ」に描きました。
(引用者注:帰一が子どものための絵に)心からうちこんだのは大正十一年創刊(引用者注:1922年)の「コドモノクニ」の第二号から、その絵雑誌の絵画主任むかえられて以後のことで、ことにその大正十四年から昭和五年におよぶ六年間に、<kiichi>は、子どもたちの絵をつくりあげ、同時に完成させたのでした。
しかしその昭和五年(1930年)に、帰一は若干42歳で急逝しています。死因は腸チフスでした。このため童画の第一人者でありながら作品はさほど多く残っていません。
それ以前の画家としての業績は、岸田劉生や萬鉄五郎らとともに「フューザン会」(日本洋画史において後期印象派風の創造を運動した)の設立に参加に加わったこと。また、やはり興ったばかりの演劇運動の分野で、自由劇場や芸術座の舞台装置を手がけて話題となったことが挙げられます。演劇運動と児童文化の黎明期は代表的な人材が重複していますから、そういうつながりもあって児童芸術に関係するようになったのかもしれません。
略歴などは以下に詳しいです。
椛島勝一(樺島勝一、1888〜1965)
椛島さんは、現在のマンガにつながるようなコマ割りとフキダシのある日本で初めての漫画「正チャンの冒険」を、1923年から日刊アサヒグラフ(後に朝日新聞本紙朝刊)に連載して人気を博しました。この連載漫画は、アメリカでの「コミックストリップ」の隆盛に目をつけた鈴木文史朗さんの案によるものだそうです。
瀬田先生自身が少年のころ正チャンに夢中になっていたそうです。
すくなくとも私は毎日四コマずつで、ふしぎな国をかいまみる新鮮なおどろきを味わわされた。(中略)そのように文飾なく、下地になじみのある人類具有のふしぎをしき、寓意や詩情や倫理をほどよく味つけて、文意を連続的にさっぱりした達意の輪郭絵でくっきりと見せ、かつ、吹出しで対話を発せしめたのだから、当時の大人も子どもも、この新形式の絵物語にとらえられないはずがなかった。
絵柄などを見た瞬間に「タンタン(ASIN:4834009254)のパクリかな?」と思わせるのですが、実際にはタンタンの登場は1929年なので正チャンのほうが6年ほど早いのです。つまり当時からかなりオシャレだったということで、近年は2004年と2005年に「ふみの日」記念切手にもなるような再評価がされています。
主人公の少年・正チャンとかわいいリスとの冒険譚は、正チャンのハイカラさともあいまって、大人気を博しました。当時、正チャンがかぶっていた帽子は「正チャン帽」といわれ、今でもこの帽子の名前は残っています。
1925年に朝日を退社してからフリーになってからは、ペンや筆による細密な挿絵画の世界に向かい、その画風で大家となったそうです。
戦闘、飛行機、船、魚雷、ジャングル、野獣たち、どれも激動をひめた沈痛な力が、少年たちを打った。なかでも、鋼鉄の機材が鋭角的に空間を切り、満帆が風をはらんで波を蹴り、しなやかな獣体が血をふいて反転する画面の質感が、灼けるような魅力であった。画家は『正チャンの冒険』と真反対の真実の側へ(中略)わき目もふらずに深入りしていったのである。彼の絵はもう白くはなく、黒くつぶされていた。
しかし、その後50年代以降の椛島さんの絵は「形骸化、標本化」したと難じています。
ほかの童画家の方たちとは一線を画した純粋な「挿絵画家」だったのでしょう。
横井弘三(1889〜1965)
「日本のルソー」と言われたこともある脱俗の画家、それが横井弘三さんです。二科展などで入選したこともありましたが、やがて画壇と決別し、その後は「子供之友」に童画を描きました(村山知義さんの紹介によるものだそうです)。
童画の分野では宮沢賢治の童話への挿絵が高く評価されています。
ネット上では次のような記述が見つかりました。
- 昭和16年(1941年)
- 「グスコーブドリの伝記」 宮沢賢治作 横井弘三挿絵 羽田書店
- 昭和23年(1948年)
- 「なめとこ山の熊」<宮沢賢治童話集第2巻> 横井弘三挿絵 講談社
*不遇の画家であった横井弘三の作風を伝える貴重機長な2冊。画家横井によるこれらの挿絵は、宮沢賢治の作品世界をもっともよく表現していると評価が高い。「なめとこ山の熊」の中で、同氏は賢治の3冊の本に挿絵を付けたと述べているが、もう1冊は発見されていない。上記2冊の挿絵の一部が、「絵本の世界 110人のイラストレーター 第1集」(堀内誠一編 福音館書店)に載っている。
([昭和10・20・30年代の “子供の本の世界展”目録 (2004.7) - 絵本・児童書専門古書店グリム書房 - 私設子ども図書館 『杉の子図書館』)
なお瀬田先生に横井弘三挿絵の宮沢賢治童話を紹介したのは、この「絵本の世界」を監修された堀内誠一さんだったそうです。
戦後の横井さんは、長野で子供に絵を教えながら、大作から小品まで多数制作されたそうです。
ゴッホのように善に密着し、(中略)ゴーギャンのように、離脱して自己の内にはいるほうをえらぶ人のように思う。(中略)むしろ、流浪して庶民の影に生きた木食や円空のクラフトマンシップに近いかもしれないと思う。
清水良雄(1891〜1954)
「赤い鳥」の表紙と口絵を担当し、「金の船」の岡本帰一とならんで大正童話雑誌時代を代表する童画家です。瀬田先生は次のように評しています。
子供のための絵の新しい創始者の一人であったばかりか、また、いままででその方面でも最高の芸術家であったと思います。
生活のために画業に就き、鈴木三重吉さんに紹介されて童話『黄金鳥』の装丁画を描いたことで童画の道に進み、前述した「赤い鳥」のほか「コドモノクニ」にも描きました。
大正十四、五年の「コドモノクニ」は、私は岡本帰一と清水良雄の世界だと思います。
帰一の線がスイートピーの丸い描線だとすれば、良雄の線は、水引草の茎のように弾力のある剄直な描線です。帰一は中央に集中する構図をとりますが、良雄は左右、または上下に分散する構図をとりました。帰一が洋風のかわいい子どもを描いたのに反して、良雄は絣を着た愁い顔の少年たちを描きました。
(中略)ことにまた、デザインというか図案というか、単純で美しい様式にまとめるのがずばぬけてたくみでした。子どもにもよくわかり、親しめる絵をつくりだして、その価値の失われない点でも、二人は好敵手でした。
その後は、日本童画家協会を結成された1927年(昭和2年)に創刊された「キンダーブック」の絵画顧問もつとめました。
戦後には、広島に疎開していた関係で、広島の児童雑誌『銀の鈴』を指導し、やがて病に倒れて亡くなられました。
画家としては戦前に帝展でなんどか特選をとり、光風会に属したそうです。
初山滋(1897〜1973)
初山さんは、1919年に創刊された小川未明氏の「おとぎの世界」の創刊から終刊まで装丁を手がけて世に認められ、小川未明氏をはじめとする国産童話集やアンデルセン童話に挿絵を描きました。その経緯について瀬田先生は次のように書いています。
初山さん自身、既成の画壇一切にそむいて、ことさら役にたたぬ、そのくせ新鮮だった当時誕生のいわゆる童画に、一匹狼として困難なオリジナルの道をみつけたのではなかろうか
活動が長かったにもかかわらず、完全に自作の創作絵本はあまりありません。そのうち戦前の「たべるトンちゃん」などは漫画作品といってもよいでしょう。
昭和十二年(1937年)のクリスマスに発売された豪華絵本の復刊です。挿絵画家・初山滋がストーリーまでてがけた異色作です。最近になってそのシュールなストーリー・まか不思議なセリフ・モダンでかわいいデザインなどが話題になってきていました。
ぶたのトンちゃんが次々とものを食べ続けるお話。唐突で衝撃的なラストも必見。
戦後には,より色彩の美しさを強調した夢のような版画の手法に移行します。
初山さんの絵の特徴について、瀬田先生は次の2点を挙げています。
まず第一に平面性ということがいえるだろうと思う。(中略)遠近やモデリングを無視して、マスブロックの色面を使い、多くのディテイルを並置して全体の印象的効果をあげる性質である。それは、大和絵や浮世絵の伝統にある平俗な大胆さと様式的な感情を結びつける手法だ
もう一つの大きな特色は、幻想的なことである。幻想というのはファンシーのことで、ファンタジーではない。つまりファンタスティックではなくて、ファンシフルだというのである。心情でかもされてふしぎな感性の色あいに染まるというか、その場その場の記憶や連想や雰囲気につれて、万華鏡のように彩られる一回ごとのイメージ、初山の絵の世界である。
しかし小川未明童話やアンデルセン童話の仕事が、初山さんの代表作として認識されたことで、それ以降もずっとそういった仕事を依頼されることになりました。創作童話が少ないのはそういうことにもよるでしょう。
略歴などは以下が参考になります。
夏川八郎(柳瀬正夢、1900〜1945)
夏川八郎さんは、プロレタリア芸術の第一線で活躍した前衛画家である柳瀬正夢(やなせ・まさむ)さんが挿絵や漫画を描く際のペンネームだそうです。柳瀬正夢さんの略歴は次のようになります。
1923年に村山知義らと前衛美術集団マヴォ(MAVO)を結成。1925年に日本プロレタリア文芸連盟の創設に参加。「無産者新聞」や「赤旗」の挿し絵、左翼系書籍などの装丁も手がける。1932年(昭7年)に治安維持法違反で検挙された。戦争協力を拒んでいたが、新宿駅西口の空襲で亡くなった。
子どもの本に挿絵を描いていたのは晩年(戦時中)のことで、検挙されたり拷問されたりしてプロレタリアートとしての活動が難しくなったので子供に向かったのかもしれません。瀬田先生は次のように描いています。
この年(引用者注:昭和十二年=1937年)の三月に、夏川八郎というよい挿絵画家がはじめてここ(引用者注:大正三年に創刊された絵雑誌「子供之友」)に登場してきました。夏川は、十三になると羽仁節子の文と組んで、以後多くの連載をつづけ、後期「子供之友」の特色、その輝きとなります。
昭和十三年ごろ、この人がコマ絵のペン画で漫画(「ツキモノガタリ」)を描いているのを、私は発見していました。それは太い線で力強く、実に生き生きと描かれ、(略)あのはげしい闘争的なポスターを描きつづけた柳瀬が、こんなに明快で健康で力動的な子どものための絵を描いている!
そして戦後を迎えることなく夏川さんは亡くなられたわけですが、もし生き延びていたらどの方向に向かったのでしょうか。
1930年代後半からは、写真撮影を通して大陸での庶民の生活を紹介するとともに、自らの出発点に回帰するがごとく昭和を境に遠ざかっていた洋画の制作を再開します。
村山知義(1901〜1977)
村山さんは一般的には演劇運動の分野で活躍された方と理解されています。
村山知義(1901-1977)は、戦前戦後と日本を代表する劇作家、演出家、美術家、舞台美術家、小説家です。他にも挿絵、装幀、アニメ制作、映画 脚本なども手がけ、自らも踊るというその八面六臂の活躍に、「日本のダヴィンチ」と呼ばれました。
その一面で「日本童画家協会」の創立に参加するなど、日本の童画がはじまったころからかかわっています。しかし1920年から「子供之友」に童画を描きはじめるにあたって、それまでの「赤い鳥」や「金の船」の童画のあり方に批判的でした。
村山知義の絵が、はじめから童画とちがう性格をそなえている点をひと口にいって、童画は情緒がめざされていたが、知義にはひとかけらの感傷もなく、情緒が意図されなかったかわりに、知的な構成があった(中略)もとより初期の童画家たちには(中略)中野(重治)のいう「対象にたいする糞真面目な追求の、画家自身による最初からの断念を見ることができる」がその亜流のはじめから根ざしていて、そのかわりに情緒的な感傷、雰囲気、カワイラシサなどが売りものにされたのであった。
知義の個性あふれる童画の世界が絵本になって甦りました。
絵雑誌『子供之友』(1914年〜1943年発行)のスーパーヒーロー、3びきのこぐまさんで人気の高かった知義の20作品を収録。明快でモダーンなタッチの知義の絵と、籌子のユーモアあふれるリズミカルな文。多くの子どもたちに夢を与えた、名コンビの作品は、時代を超えて輝きます。
また1932〜39の「コドモノクニ」にも描きました。
戦後には福音館書店の「こどものとも」をはじめとするたくさんの挿絵本と絵本を残しました。夭折したり忘れられた方々とは違い、現在までちゃんと売り続けられている童話作品を遺されました。
そのほか画家としては次のような作品もあります。
小山内龍(1904〜1946)
戦後すぐに疎開先で、若干42歳で夭折された漫画家で、動物漫画を得意とされたそうです。
今日この人の生涯を思うと、じつに口惜しい気がする。(中略)すべてはこれからだった。亡くなる前に「残念だ」ともらしたと、この人の友である横山隆一さんが記しているが、さぞかしと思われる。
船員など十以上の職業を転々とし、1932年に創立間もない「漫画集団」に参加。1937年から「コドモノクニ」に四コマを連載するなどの活躍をされたそうです。
しかし現在手にはいる画集などはなく、Amazonには昆虫飼育記録があるのみです。
茂田井武(1908〜1956)
48歳の若さで夭折した童画家で、戦後にいくつかの傑作を残されました。
茂田井さんは骨の髄までボヘミアンであったらしい、日本にはめずらしい画家でした。アカデミズムが大きらい。相当皮肉な反骨的な大人の固い殻の内側に、世にも脆くやわらかい子どもの魂のような歌う泉があって、そこから歌いだすと、素直に子どもの気持ちに通っていくような、孤独な吟遊詩人の風格が、茂田井さんにあったように私には思われます。
戦前にはパリを放浪するなどして画家としての経験を積まれたそうです。
本格的に子ども向けの挿絵や絵本を描きはじめたのは戦後になってからでした。
やがて病に倒れ、病床で福音館書店の「こどものとも」第二号に宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』を挿絵しました。
『セロひきのゴーシュ』は、茂田井さんのほぼ最後の傑作といえましょう。水彩の詩情は、賢治内部の訴えをあますところなくあらわしています。自由で気のはいった迫力が、いたいくらいにあふれています。この画家が、ああここまで来たかと思わせるくらいに、ごうごうと強いリズムを感じます。
そしてこの作品が刊行された年の11月、茂田井さんは亡くなりました。
八島太郎(岩松淳、1908〜1994)
八島さんはここまでで紹介した方とは違い、日本の童画界とは関係なく、アメリカで英語の絵本を出版した日本人画家です。プロレタリア画家であり、労働運動によって思想犯として何度も投獄され、遂には日本を捨てるという選択をしました。
アカデミズムとモダニズムの氾濫する当時の画壇にあいそをつかして昭和五年に美学校を中退して「大衆のための画の道」にはいっていきました。(中略)同じ志をいだいて女子画学生と結婚して、二人してゆがんでいく軍国主義に体あたりをしました。はげしい漫画やポスターが描かれました。そして当局の手で、二人とも獄につながれました。(中略)ますます荒んでいく故国と、ひとり子のマコをあとにして、夫婦は昭和十四(一九三九)年に貨物船でアメリカに渡りました。
そして日本軍向けの宣伝ビラを描くなどの仕事をし、自叙伝を書いたり個展をひらいたりするうちに「ヴォーグ」「フォーチュン」「ハーパーズ・マガジン」に挿絵を描くようになり、やがて次のような何冊かの絵本によって広く知られるようになったそうです。
- 1954年
- 1956年
- 1959年
- あまがさ (世界傑作絵本シリーズ)
これらの絵本については次のように紹介されています。
題材はたいへん日本的な特徴を持っていますが、一方、高い質を競いあうアメリカの絵本出版の世界でみがかれて、一作ごとに強く、この人の個性的な愛情深い情感があふれています。
以下は検索で見つけた関連のページです。
- 企画展「ある知日家アメリカ人と昭和の日本 ―― ドン・ブラウン文庫1万点の世界」から 岩松淳(八島太郎) - 横浜開港資料館●横浜開港資料館館報 開港のひろば 第83号
- 絵本日記:◇八島太郎【やしま・たろう】 - livedoor Blog(ブログ)
ちなみに息子のマコさんも戦後NYに渡り、役者として成功されたそうです。