in between days

表参道で働くシニアのブログ

1割る1は1ではない。

3カ月ほど前の人力検索だけど、とても興味深い質問を見つけた。

言われてみれば確かに不思議である。3/3=1だと普段から何気なく信じているが、このように問い直されてみると、自分がいかに常識というものに捕らえられていて新たな発想の一歩が踏み出せないでいるかを痛感させられてしまう。同じようなひとは回答者の中にも何人か見受けられる。多くの人たちが1と0.9999999……の違いを自分なりにそれぞれ自分らしく考えているというのに、安易にもウィキなどを引用して当然のことですとしたり顔で済ませているのが実に剣呑である。なぜひとびとは自分らしさを失ってしまうのか、すべては偏差値教育の弊害ではないのか。個性が大切だということがなぜわからないのだろう。これでは学校の教諭がいじめを先導するといった事件が起きてもなんの不思議もないではないか。

話がそれてしまった。さて多くのひとたちが自分なりに自分らしさを求めてこの不可思議な現象の解明に取り組んでいることは上記の回答を見ても明らかであり、その姿勢に私は涙を禁じえない。そうである、用意された「正解」をスラスラと暗記したかのように答える優等生よりも、自分の言葉で回答を導き出そうとするその姿こそが感動を生むのだ。間違ってたっていいじゃないか。人間だもの。私も彼らに負けたくないと誓った。祈った。そして、私なりにまず手を動かしてみることにしたのだ。こんな怪奇な現象を頭でいくらひねくったって休むに似たりだ。汗をかけ! 私は私を鼓舞した。その結果が次の驚くべき検証結果である。この写真を見て欲しい。

そう。私は割り算の筆算に挑戦してみたのである。そして途中でこれは大きな試練だということを痛感した。終わらないのだ。筆算がいつまでも終わらないのである。私は汗をダラダラと流し、手の震えが止まらない。私はなんという恐ろしいことをはじめてしまったのか。この筆算は永久に終わらないのではないか。永劫ともとれる時が過ぎたとき、私は不意に我にかえらされた。

計算がノートの右端に到達してしまったのである。私は終わりまで筆算を成し遂げることができなかった。不可抗力的に、ノートの横幅という物理的な限界をもって、私の筆算は終わりを告げることになった。私はまだ計算できる。しかしもうそのスペースが無い。私は先日生涯二度目の戦力外通知をホークスから受けた芝草宇宙のことを思った。彼は古巣ファイターズのリーグ制覇をどのように見ただろう。なしくずしの死。阿部薫のソプラノサックスの音色がいま部屋中に満ち満ちている。アカシアの雨に打たれていっそ死んでしまいたい。そんな気分なのです。

しかし私はそれでもひとつの結論めいたものに近づけたような気がする。いったいこの人力検索の質問に回答したひとたちのなかの何人が自分の手を動かし、汗を流して、この筆算を実際に検証してみようと思い立っただろうか。私はやってみた。自分の手を動かし、頭でこねくり回すのではなく、行動で示そうと試みた。だからこそある結論めいたものにたどり着けたのではないかと思う。やはり動いてみることが大切なのだ。

筆算の写真を改めてみて欲しい。そこには志半ばではあるが、だからこそむしろ遺書のように、この最後まで行き切れなかっく挫折した筆算の遺志であるかのごとく、こう記されている。

0.999999999999999

そう。もうお分かりだろう。1割る1は1ではない。これは真実だ。

みんな信じられないかもしれないけれど、それは頭で考えすぎているからだ。考えるんじゃない。感じるんだ! 真実を感じることができるものだけだ真実にたどり着くことができる。常識を捨てろ。1÷1=1 そう学校で習った。そんな頭でっかちな「知識」はもう要らない。手を動かし、体を動かし、心で感じたものだけがわかる感動をいまみんなで分け合いたいと僕は考えるのですよ。

そもそもこの数式をもう一度ちゃんと見て欲しい。

1÷1

この「1」は自分で自分を割っているのだ。自分で自分を壊そうとしているのだ。こんな自傷行為を経た「1」が割られてしまったあとになってもやはり「1」であるなんてことがありうるのだろうか? 自分の身になって考えてみよう。みなさんも「1」の立場になって考えてほしい。いいですかもう一度繰り返します。「1」は自分で自分を割った。この悲しむべき事態が発生したその起源はもう問わないで欲しい。ただ、今は自分で自分を割るという辛い体験をした「1」をあるがままに受け入れてあげたい、そう思う心がなくては人間は人間でなくなってしまいます。

1−0.99999……=0.00000……

これが「1÷1」という行為の代償です。目には見えない。しかし確実に何かが、0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000…………と永遠に続く0の地獄で表される「何か」が1から永遠に失われてしまったのです。

私はいま後悔しています。私が行動したことによって、私が筆算をしたがために、いま1が失ってしまったものに気づかされてしまった。私は余計なことをしてしまったのでしょうか。私にはわからない。なにもかもがわからなくなりました。ひょとしてこれが大人になるということなのでしょうか。こうして失ったものを誤魔化しながら私たちは日々をやり過ごしているのです。そんなのはもうごめんだ。そう思ったあなたは、ぜひこの記事をブックマークしてあなたの思いを1に伝えてあげてください。やさしい言葉をかけてあげれば、数字の「1」だってきっと美しい結晶を残すに違いないのですから。

最後に、もしも、もしもです。この記事を読んで少しでも「なるほど」とか「確かに」といった納得の片鱗でも見せてしまった方がいらっしゃいましたら、キラキラした水中を泳ぐクジラの美しいシルクスクリーンをローンで購入したり、とてもよく落ちて自然にも優しい洗剤の共同購入に参加したり、肉親が事故を起こして警察にいるという電話がかかったからといってすぐに示談金を振り込んだり、友人の保証人になったりすることのないよう、しっかりと今後の人生を生き抜かれることを節に願ってやみません。

水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ

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