- 作者: 岡野友彦
- 出版社/メーカー: 教育出版
- 発売日: 1999/09/01
- メディア: 単行本
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家康の関東入部までを専門に扱った本としては、先日紹介した『家康入国 (1976年) (季刊論叢日本文化〈6〉)』や鈴木理生氏の名著『江戸と城下町―天正から明歴まで (1976年)』などがあるけど、本書はそれらを踏まえたうえで江戸を中心とした近世までの関東支配を縦軸に、伊勢を起点とする東航路海運というあまり語られない事象を横軸にして江戸にフォーカスしている。
物流から見える歴史
家康の江戸お打ち入りについては「その時歴史が動いた」でもやってたそうだけど*1、そのウェブにも江戸を中心として物流の拠点があったことが書かれている。
- 当時の江戸が港として栄えていたことについて
- 当時の江戸について詠んだ漢詩文「寄題江戸城静勝軒詩序」の記述に拠っています。映像に出てくる文章もこの史料のものです。
戦国時代はとかく派手な合戦にばかり目が行きがちだけど、後期ともなれば安堵された領土でどう産業を興していくかに視点も移っている。群雄割拠のころは守りやすく米も確保しやすい盆地の山城を拠点にしていた戦国大名も、天下が豊臣にほぼ決してからは交易に都合のよい場所、つまり大きな河口デルタに本拠地を構える流れがあったようだ。
当時の大規模物流は水運なわけだから、海と河と湊(内海にあって遠浅でない地形)を求めた。まず天下人であり経済にもすこぶる強かった豊臣秀吉自身が歴史的な物流拠点である大坂に城を築いているし、毛利輝元が瀬戸内海に面した広島に移ったり、伊達政宗が仙台を選んだのもそういう要因があってのことだろう。
そういう流行のなかで考えてみれば、伊勢を起点とする海運の拠点である品川にも程近い大利根水系の一大河口デルタ付近に居を構えるという選択はそれほどおかしいことではない。というより極めて妥当で常識的な判断だったといえるかもしれない。
関東の中心地としての江戸
なお「その時歴史が動いた」のウェブサイトにはこうも書かれている。
豊臣秀吉に関東への領地替えを突如命じられた家康。しかも居城地として指定された江戸は不毛の湿地帯に過ぎなかった。海が入り込み地盤が弱く住民も少ない江戸は、家康が本拠地とするにはあまりにも不向きな土地だった。しかし家康は水運の要という利点に注目し、江戸での都市建設を決意する。
この書き方では秀吉が家康を困らせようとして江戸を選んだという雰囲気が強いが、これは「徳川実紀」をもとにした記述であり、本書では秀吉が「ここは交易に向いてるから」といって家康に勧めたとする史料もあるということが書かれている。
家康が選んだにせよ秀吉が押しつけたにせよ、日本の安定のためには、東国の運営という難しい業務をキッチリとこなすことが最重要課題であり、その拠点としては物流面も考慮して「江戸だろ常考」ということで秀吉と家康で考えが一致していたのではないだろうか。江戸は利根水系の河口であるため、北関東や奥州(常陸佐竹氏やその向こうの伊達氏)までも視野にいれた領国運営ができるだろうということは、本書で指摘されている。
ただし、日本の政治の中心として考えるなら、家康が江戸入りした時点ではどれほど考えられていたかはわからない。家康は関東入りしてからも江戸には正月前に帰るくらいで、基本的には京都(伏見)で政務にあたっていたし、隠居先してからはずっと駿府にいた。家康は大坂夏の陣で豊臣との決着が着いた翌年に亡くなっており、その後の日本において江戸をどうするかまで果たして考えていたのだろうか。
久保田藩佐竹の場合
常陸佐竹という名前が出たので思い出したんだけど、岩明均のマンガ「雪の峠」では秋田に転封された佐竹家で、久保田城の築城をめぐって渋江政光ら若い家臣と戦国からの重臣らが対立する姿が描かれておる。作中のト書きには次のようにあり:
永年戦場に暮らし、またそれぞれ自分の田畑を管理する小領主として生きてきた重臣たちの多くは、渋江内膳の示した都市プランのイメージがわかず、むしろ領土掌握型の軍事論に徹した梶原美濃守の言葉の方に心惹かれた
この「渋江内膳の示した都市プラン」は、家康が江戸を選んだ理由に通じるものがあるようにおもう。というかこの「雪の峠」という作品はこんな地味な題材をこんな地味な筆致で描いててこんなにスリリングなんだから岩明均はほんとにすごいなあ。
- 作者: 岩明均
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/03/21
- メディア: コミック
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*1:再放送も全部終わってから知ったので見てませんが