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表参道で働くシニアのブログ

「ひな壇」としてのtwitter

「ひな壇」っていう言葉をぼくはアメトーークの「ひな壇芸人」で知ったんだけど、テレビのバラエティのなかでもゲストがたくさん出るトーク番組で、ゲストが階段状に「雛段飾り」のように並んでいるのを「ひな壇」というんですよね。
ぼくはどうも「twitterってのはこのひな壇みたいなところがあるな」とおもっていて、それは何かというと、とりとめもない話をしているようでいながら、実のところは観客の目線をちゃんと気にしている、っていうところ。もちろんtwitterの使い方はひとそれぞれなので「オレはぜんぜん違うよ」というひともいるでしょうが、周りにはきっとそういう人もいるんじゃないかとおもいます。
で、テレビのトーク番組というのは、まあだいたいが毒にも薬にもならないような「私の周りでさいきんあった出来事」を面白おかしく(または喜怒哀楽さまざまに)ホストやゲスト同士で話合ってるんだけど、あれはただ世間話をしているようでいても当然ながらテレビ番組なので、ゲストAとゲストBが思い出話をしていても、ほかのゲストも(どこで割って入ればいいかとか)注目してるし、スタジオにお客さんもいるし、テレビカメラの向こうにはお茶の間がある。
だから、ひな壇に座ってる芸能人のひとは、実際に会話をしている相手、ゲスト同士だったりその番組のホストだったりのほかに、スタジオやカメラの向こうにひろがったオーディエンスにも言葉が届いているんだ、ってことを意識しながらしゃべっていて、それがまさにtwitterで実際に会話している相手と、そのtweetが届いているであろうタイムラインの向こう側っていう関係に当てはまるんじゃないだろうかっていうことを考えてたりします。
たとえば、誰かの発言に返事をするときに、ただ普通に@でリプライするんじゃなくって、元の発言を引用してRetweetしてそこに「そうですね」なんて返事を書くのは、間違いなくタイムラインの向こう側のオーディエンスを意識した作法ですよね。だって、ふたりだけの会話だったら普通にリプライし合えばいいところを、わざわざRTしてるのは、こういう文脈があってその流れで私はこう言いました。ってことをちゃんと(タイムラインの向こう側にいるみんなにも)伝えたいっていう意識が働いてるからじゃないかとおもうんです(もちろん閲覧範囲の問題もあるだろうけど*1)。
でまあ不思議なのは、オーディエンスが見てることを意識して(@リプライではなく)会話型の引用RTをしてるとおもわれるのに、ときおりRTのRTのRTみたいな、誰がなにを言ってるのか一見しただけではよくわからないような、グダグダな多重RTが流れてきちゃうのはなんでだろう、というか多重RTがグダグダになりがちってことはさほど気にされてないんじゃないかってことなんですよね。ぼく自身は公式RTか@リプライしか使わないって決めてるので、実際に引用RTするときのことはよくわかんないんですけど、あれはなんとかならないのかなあといつもタイムラインを見ながら違和感を感じているのでした。

*1:閲覧範囲の違いって実際のところどこまで意識されてるのかな? なんか最近はふつうに引用RTしかしない人とかもいるし、@リプライだと閲覧範囲が狭くなる(両方をフォローしてないと見えない)ってことを意識しないで(気づかないで)twitterやってるひともかなりいるんじゃないかってきがするんだけど