輪島裕介『踊る昭和歌謡』を読んだ。昭和30年代(1955年からの10年間)における、いわゆる「ニューリズム」ムーブメントの成り立ちと変遷を中心に、日本歌謡史でも軽視されがちだったリズム歌謡にフォーカスした一冊。
- 作者: 輪島裕介
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/02/06
- メディア: 新書
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たしかに「ニューリズム」と言われると業界主導で作られた流行(はやり)モノという印象が強い。手元にあった「歌謡ポップス・クロニクル」というムックでも見開き2ページのコラム(書いてるのはコモエスタ八重樫さん)しか与えられていない(時代的に重なる「カバーポップス」には1章まるまる割り当てられている)。
本書では、リズム歌謡のハシリとなった「マンボ」の伝来から説き起こし(その前に2章分の前史がある)、本場南米ともニューヨークラテンとも関係なく東南アジアから流入したヘンなラテンリズム「ドドンパ」の詳細を解き明かしていたりして、単純に音楽業界史としてかなり興味深い。
また、それを受容する大衆(リスナー)の姿がおもしろい。例えば、マンボブームに「踊る若者」は良識派から非難される存在だったらしい。
マンボ・ブームは、音楽によって特徴づけられた流行現象が、とりわけ「若者」の逸脱行為と結びつけられてモラルパニックを惹き起こしたという点でも、その後のロカビリーやエレキやディスコに先駆ける存在であった。(87ページ)
さらに、マンボを「踊る」不良に対して「(音楽として)聴く」優等生という構図があるのもおもしろい。
そういえば、1980年代に校則けっこう厳しめの学校に通ってたんだけど、禁止されている改造制服(学ラン)のバリエーションに「マンボズボン」というのがあって、それがこれだったんだなあ、と今さらのようにきづいた。もう30年前の話だけど。
閑話休題。「マンボ」や「ドドンパ」を中心にしつつ、本書では前史として昭和初期の「盆踊り」の流行から、ニューリズム以降のアイドル歌謡、竹の子族、ユーロビート、パラパラと、お茶の間を席巻した「踊る」歌謡曲を論じている。
とはいえ面白いのはやはり「ニューリズム」周りの記述で、ドドンパに興味があってもなくても昭和歌謡好きは必読という一冊だった。
盆踊りから「踊ってみた」まで、みんなで楽しく踊れる振り付け
ところで、本書本来の内容からは離れるけど、上記の道筋に沿って歌謡史を眺めてみると、この記事のタイトルにあげたような「同じ振り付けをみんなで踊る楽しさ」の系譜が見えてくる。関連する箇所を本書から抜粋してみたい。
まず、戦前は昭和初期の「盆踊り」の大流行から
「東京音頭」は、各地で踊りの講習会を兼ねた大会が行われ、それが功を奏して全国的に大流行する。(36ページ)
わざわざ「講習会」が開かれているのがおもしろい。振り付けを習わないと踊れなかったのだろう。
同じく東京音頭について、細川周平さんの論文の孫引きになるが、みんなで同じように踊ることの楽しさに魅入られた人たちの姿がある。
レコード歌謡が集団的な踊りと結びついた(略)ここにいたって一緒に踊る歌が登場した。(略)ほかの踊り手にそろえて体を動かすこと自体が新鮮な喜びだった。(38ページ)
戦後、昭和30年代のマンボ・ブームでも、やはり「講習会」が開かれている。
「映画会社とダンスホールをジョイントした大掛かりなマンボ・ダンス講習会」を企画したのだ。(78ページ)
マンボはそれまでの社交ダンスのような堅苦しさがなく好き勝手に踊っていると言われたそうだが、それでも決まった振り付けを習うことは欠かせなかったようだ。
その後も、特定の楽曲と結びついたあるニューリズムが輸入されるたび、まずダンス教師がその「正しい踊り方」を制定・発表し、各地を行脚して教授する、という方法が用いられることになる。これは戦術のように、戦前の「東京音頭」と同様の宣伝方法である。(79ページ)
時代は下がって昭和50年代には、アイドルの振り付けをみんながマネしはじめる。
オーディエンスが歌手と同じ振り付けを踊ることが、その歌の最も基本的な受容のあり方となるような、そういった歌と踊りの不可分な関係が生まれるのは、1976(昭和51)年デビューのピンク・レディーに至ってのことといえる。(226ページ)
この当時に小学生だった女性(1960年代後半生まれになるのかな)は、今でもピンク・レディーを「全員踊れる」という「探偵! ナイトスクープ」の調査結果があるらしい(227ページ)
さらに50年代も後半になると、竹の子族や「一世風靡」といった路上パフォーマンスが取り上げられる。
原宿の歩行者天国でチームに分かれて独自の振り付けを輪になって踊る竹の子族は、その後のパラパラにもつながる側面を有していると思われる。(251ページ)
竹の子族ではチームごとに輪になって同じ振り付けを踊るんだけど、それが「独自の」となっていることがおもしろい。それまでの講習会をトップダウンだったとすると、自分たちで振り付けるボトムアップ型の文化がここで生まれたのだろうか。
最後に、ポスト昭和のダンスムーブメント「パラパラ」に言及。
「パラパラ」とは、ユーロビートの楽曲に上半身中心で振り付けた動きを一斉に行うダンススタイルで、下半身は水平的に左右を反復する単調なステップをキープし、曲にあわせた手振りがつく。(略)ある程度定式化されたされたコードを組み合わせて一連の長い表現を生み出すあり方(略)自由に踊るのではなく、集団で一糸乱れぬように踊る、というのが重要なポイントのようだ。(260ページ)
本書では「パラパラ」を「ドドンパ」と結びつけて語っているけど、ここで記述されているスタイルは、サイリウムを左右に振ってものすごい振り付けを見せる「ヲタ芸」にも通じるものがあるなーという気がした。
そして「おわりに」で、ニコ動を中心とする「踊ってみた」文化に触れ、
踊りのカヴァー(コピー)動画を素人が投稿することで、その曲と踊りが大規模に拡散するという新たな流行のメカニズムは、(略)純然たるメジャー音楽商品のプロモーションにさえ用いられるようになっている。(267ページ)
次のように「みんなで踊る」ことこそ大衆音楽としてあるべき姿とまとめている。
みんなで踊ることは大衆音楽への「常態」への復帰ほかならない。
音楽のスタイル、使われているテクノロジーや時代背景はそれぞれ違えども、一貫して「みんなで踊る」こと、それも「同じ振り付け」を踊ることが求められているということがいえるのではないだろうか。
マンボからディスコ、ホコ天、パラパラって流れにはなんとなく一貫した不良っぽさが漂い、「おわりに」で言及される氣志團にいたっては、より現代的な郊外型の「マイルドヤンキー」っぽさがあるが、それは偶然ではなく、集団(仲間)を大切にする文化圏で、つながりを強めるツールとして「同じ振り付け」の需要が脈々とあるのかもしれない。
さらに一般的なエンターテイメントとしての魅力でいうなら、みんなが一体になったときのハンパない高揚感への欲求がいつでも潜在的にあり、時代時代でそれに合う音楽が流行しているのではないか。ひょっとすると、どういった音楽であるのかは(それがそもそもダンス音楽であるかどうかも含めて)二の次だったりするのかもしれない。
ひとり自由に「自分の踊り」を踊ることは、いまもあるだろうか
と、ここまでに大げさに書いてきたけれど、これはある意味でアタリマエのことじゃんってきもする。みんなで同じ振り付けを踊って楽しいって、それはダンスのありきたりな形である。が、そうではないこともある。
もういちど『踊る昭和歌謡』に戻るなら、本書は日本の昭和歌謡全体を扱っているようには見えて、実は意図的にフォーク、ニューミュージック、そしてバンドブームへと続く自作自演のポップ・ロック全般を、次のような理由でスルーしている。
「ニューミュージック」と呼ばれるもののなかでは、ニューリズム以降の「踊り」の要素は一旦影を潜める。(略)娯楽として踊るための音楽からシリアスな観賞の対象としての音楽、という、ロックの世界で起こった変化をそのまま直接追認している、といってもよいだろう。(225ページ)
本書は、例えば黒沢進氏の一連の仕事を高く評価しつつも「アメリカ白人若者音楽の発展史的な展開に準拠した枠組み」と指摘するなど、ロック的な価値観からは距離を置こうとしている。
言うなればボブ・ディランあたりを起点とし、90年代にはカート・コバーンがもろにぶつかってしまった青年期特有の孤独感やアウトサイダー気質と親和性の高いロック音楽は、本書の対象である「みんなで踊る」価値観とは相容れないものが確かにある。
一方で、80年代のポストパンク、ニューウェーブのムーブメントのなか、シリアスな音楽表現が一周したロックの世界で「踊るための音楽」が再浮上してくる。おそらく前史として、シリアスなテーマとダンスとを融合した「レゲエ」の流行がある(そういえば本書はレゲエをターゲットに入れてない)。
例えば、80年代の東京を描いた岡崎京子『東京ガールズブラボー』のなかに、興味深いシーンがある。
主人公の金田サカエは、イトコに連れてかれた池袋の「よくわんないディスコ」で「みんな何か鏡むいておどってる」のを「だっせー」と思う。たくさん客が同じステップを踏んでいるコマが描かれている。そう、ディスコでも「同じ振り付け」の文化があった。
一方で、当のサカエは突然かかったトム・トム・クラブ「おしゃべり魔女」で狂ったようにおどり「タコオドリ」と笑われる。ダンス・ポップ・ユニットのトム・トム・クラブは、ロックバンド「トーキング・ヘッズ」のサイドプロジェクトである。
みんなと同じように踊れないからかどうかはわからないけど、ロックの世界では「みんな」では踊らない、自分の踊りたいように踊る、そういう「自由さ」に重きを置く傾向がある。よく「自分のステップで自由に踊ればいい」というようなことを言うじゃないですか。でも、実際はタコみたいに踊れば笑われてしまうんですよね……。
ただ、最近の傾向としてロックコンサートであっても、客席全体で動きを揃える一体感、みんなで同じ振り付けを合わせる気持ちよさのほうが重要視されているのではないかと思えることがあって、ある歌詞のある箇所で同じように手を振るとかタオルを回すとか。それってロックっぽくないな、と感じてしまうのはきっとおっさんだからなんだろうなあとおもったりする。
さらに「ある程度定式化されたされたコード」をボトムアップに組み上げて客席みんなでステージを応援するアイドルのライブなど、ある種の一体感による快楽がより強い「現場」のほうが、いまはおもしろいとされているような印象がある。
音楽シーン全体として、たとえ孤独感をテーマとした楽曲があったとしても、それをひとりで抱えるより、みんなで共感したり共有していることを前提にするほうに流れが来てるんじゃないだろうか。
とはいえ、こういうのは観測範囲の違いもあるだろうし、昔から一体感が重要だったよという人もいれば、今でも自由さは大切だよという人もいるだろう。世代によっても違った感じ方があるだろうから、いろいろな人の意見が聞けると面白いかも、なんておもう。
- アーティスト: MUTE BEAT
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