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表参道で働くシニアのブログ

リアルとソーシャルについて試論

お台場のガンダムがこの前終わって秋に別のガンダムが大地に立つらしいけど、ここはダグラムのエンディングを再現とかやってもらいたかった(砂地の上ならなおよい)

むかしのFacebookの書き込みのサルベージ。5年前の2012年。

ネットの実名×匿名って、実際のところ「有名人×その他大勢」の言い換えだったりするんだろうなあ。マスメディア的というか、テレビ的というか、ごく一部に名前が通った有名人(コテハン)がいて、その周辺を大量のその他大勢(名無しさん)が囲んでいる構図。

ネットは新しいメディアだ! と持ち上げられるけど、実際のところ今でも延々と、ツイッターで数十万フォロワーとか、フェイスブックで何万フィード購読だとか、けっきょくは「一部有名人×その他大勢」という構図だけが人のメディアのコミュニケーションのあり方として成り立ってることには変わりなくて、オレたちゃその他大勢側だから匿名ステハンで気楽にツイートしよーずみたいな感じで気軽に犯罪自慢して炎上するひとは跡を絶たないんだろうなあ
それか、電話とかメッセンジャーとかチャットみたいに一対一の構図か。

けっきょくまだ人類ってのは、「ステージに立ってる選ばれし者×その他大勢の名無しさん」か「一対一」かどっちかのコミュニケーションツールしか産み出してない、というか使えないんじゃないだろうかっていう気がしてる
ソーシャルメディアがおもしろかったのは、その「有名人×その他大勢」の構図を相対化するというか、自分にとってはこのひとは重要なひとだ、というまあ人間ふつうに生きてればふつうにやっている自分を頂点とした周囲の人物の優先度というか付き合いの深さの違いをそのままコミュニケーションツールとしてIT技術によって抽象化しうるというか一般化できそうというか、そういうことが可能になってる気配だとおもうんだけど、ちょっと油断するとすぐ「一部有名人×その他大勢の名無し」にサーッと分かれてっちゃうような気がする。mixiもそうだったし、Twitterもそうなってるし、Facebookは実名制という極端な飛び道具でなんとか「名無しさん化」を防いではいるけど、フィード購読の影響がどこまであるんだろう?

これはいま読むと状況のほうが変わってきてて、Twitterのコモディティ化によってふつうにマスメディアの有名人がたくさんネットをやってるので、ことさら「ネット有名人」に関する議論自体が成り立たなくなってるような印象。けっきょく有名人とはマスが知っていないといけないので、簡便なマスメディアに出ていることが有名人の証左であり、そしてネットはマスではないということか。量的にはすっかりマスだけど構造的に「マス」ではないということかな。

Fbに限らずSNSというものはリアルの人間関係をネットに持ち込むものだから(←わりと極端な定義)、いっしょになってリアルの人間関係の面倒くささもネットに持ち込まれてしまう。これはもう避けがたいことで、そこがこれまで匿名で気軽でインタレスト主体だったネットのあり方/使い方と齟齬を起こしている。そこまではわかってたつもりだった
んでFB厨としては、そこのところ設定が面倒だとはいえリストと非表示と公開範囲の3セットを持っているFbがほかのSNSより機能的に抜きん出てると信じたかったわけだけど、やっぱそのくらいの設定項目じゃあリアルの人間関係の面倒くささには太刀打ちできず、リア充的なドヤ顔の友達への参入をいったん許すと最終的に負けてしまうのが現実だった。そこに限界はあった。オレの見立てはシロノワールのように甘すぎた。

そういった意味で「FB=リア充ツール」説は確かに正しいのだ。リア充の人間関係は常にシンプルであって、そこに使い分けの複雑さを抱えていないのだから
じゃあどうすればいいのか。人間の持っている多面性が強固にある場合(たとえば地方に住んでいて、地元の知り合いにはいっさい秘密にしている趣味をもっていて、絶対に聖域的に隠しておきたいひとなど)、どのようにFacebookを使うことができるのか、それともFacebookは諦めて、よりスモールなサービス(Lineとか)に活路を見出したほうがいいのか
これはネットの匿名性(アノニマス)というよりも通名性(スードニマス;pseudonymous)をどう担保するかという課題で、これを解決したソーシャルウェブはいまだ無いとおもう。Twitterによってリアルタイムなアクティビティフィードのパワーが発見されて以来の、次の課題になるだろうとおもう。

この方面では、G+のサークルが期待されているのだけど、上手いことそういった使い方をしてるという事例は寡聞にして知らない。もしあったらぜひ教えてください!(AKBのひとたちが内輪のサークルではヤバいはなししまくりとかだったらちょうステキなんだけど)
じゃあTwitterはなぜ上手くいってるのかというと、けっきょく町で知り合いが異性と歩いてるのをを見かけてもあえて声をかけないのと同じような儀礼的無関心が働いていて、知り合いの変なツイートを見てもふつうは無視してくれるので一見うまくいっている。ただ、炎上ケースなど、儀礼もへったくれもなくなると全部が晒されてひどい目を見る。諸刃の剣。素人には(ry
なんだろうなー。フリーランスのライターとして「Facebookが社会とユーザーに革命をもたらす」とか煽って『Facebook社会論』とか刊行して金髪でにしてオレも一旗あげたいぜーとかまあふつうに思ってはいたわけだけど、そうはイカのタマキン的に行き詰まりを感じる春三月であった。

多面性の議論、さいきんあまり聞かれないようなきがするんだけど、5年も経つとFacebookやTwitterの使い方・使い分けをみんな心得てきてて、それぞれにホームをちゃんと確保しているということからだろうか? それともなにか当時と変化している部分があるのかな(変化は観測できないのでよくわからない)