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表参道で働くシニアのブログ

古田亮『日本画とは何だったのか』読了

近代日本画を様式の変遷から描き切ろうとする労作。それによってなんとかこの鵺のような存在を美術史に収めようとする試みに読めた。本質的な革新をさておき、表現上の技巧、アイデア、鍛錬、艱難辛苦と超絶技巧が折り重なる堆積物を丁寧に広げて伸ばしてみたところにいったい何があったのか。J-POPと同類のガラパゴス感がある。

日本画とは何だったのか 近代日本画史論 (角川選書)

日本画とは何だったのか 近代日本画史論 (角川選書)

あまり本筋ではないところだけど、竹久夢二をイラストレーションであるとしているのがおもしろかった。

同じ著者が監修した別冊太陽の『近代日本の画家たち』がこの本の図録集のようなところもあり、これも面白かった。

近代日本の画家たち―日本画・洋画美の競演 (別冊太陽 日本のこころ 154)

近代日本の画家たち―日本画・洋画美の競演 (別冊太陽 日本のこころ 154)

それで日本画の国際的な評価について知りたく、検索していたらこういう論文があった。気になるのであわせて読んでみたい。

CiNii 論文 -  ルーヴル、オルセー、ポンピドゥーになぜ日本画がないのか?
https://ci.nii.ac.jp/naid/110010051392

日本の近代絵画について書かれたものを読んでみると、ルーツ(お手本)や取り入れたものが欧米にあり、欧米でAというスタイルが流行ると日本でA'が生まれ、欧米でAへの批判としてBというスタイルが流行ると日本でB'が生まれる。ただし、A'とB'はとくにお互いの関連もなく、我関せずと並立している。これと同じようなことは日本のジャズ史を語る際にだれかが言っていたことだったようにおもったけど、J-POPでも同じようなもので、下記のエントリーに書いたように、自分が愛好するものが、所詮はそういった根無し草ではないかという感覚はずっとある。

「日本人のリズム感は西洋音楽のリズム感と」で書き切れなかった音楽の自由さだとか永遠だとか - in between days

もっともそうやってA'もB'も残り続けたおかげで、日本には中国では失われてしまった唐代や宋代の技法や逸品が残されていたりするわけで、それは音楽も同じかもしれない。

雅楽滅びろ

この匿名ダイアリーには自分も含めて賛同する意見が多かったけど、雅楽はむしろ古代中国の音楽様式を後世にそのまま伝えるという重要な役目があるから今のままでいいのだ、といったようなことをだれかがソーシャルで書いてるのを見かけて、それはそれで一理あるかもしれないとおもった。

雅楽も、近代日本画も、J-POPも、すべて偉大なるガラパゴス的な日本の遺産なのだ。