今って、尾崎みたいに鬱屈した若者を代弁するようなアーティストっていないの?
2000年代以降のロック・ポップスにはかなり疎いので具体例を上げられなくてもうしわけないんだけど、いまの日本にかぎってもロックにしてもポップスにしても若者の気持ちを代弁しようとしたらだいたい鬱屈としていて、デフォルトで尾崎より鬱屈してないかな。
80年代はバブルの期待感あふれる社会の雰囲気があったので今から見たらバカみたいに明るく、尾崎豊くらい鬱屈していればもう特別な存在というかんじだけれど、バブル崩壊後ずっと低成長でアベノミクスも期待はずれだし、そうなると気分も暗くなるというもので、平均的な日本人はだいたい尾崎よりずいぶん鬱屈した人生を送っているなかで、どうやりすごしていくかが歌われていて、一見すると明るい歌でもベースとしては鬱屈していたり、正面から鬱屈を表現すると尾崎のような社会へのメッセージではなくもっとただただ自省的な方向に向かっていくのではないかという気もする。
ブクマ数がかなり多かったのでブコメで陰鬱としたロックバンド大喜利になってるかと期待したんだけど、トップコメをザッと見回したかんじではそういうものでもなさそうだったので、だれかまとめを作ってほしいきもする。
そういえば、ブコメでは欅坂が挙げられてたけれど、80年代に広く大衆にも共有された「若者のメッセージとしてのロック音楽」が、10年かけて消費され、学習されて、楽曲制作的に再現可能となり、自分もかなり好きだったのでアレだけど渡辺美里の初期楽曲を聞き直してみると、わかりやすいくらいメッセージソングで勝負しようと意図して制作されているなあという印象を今になってしまうと感じてしまうのだけれど、90年代半ばにはもうそれすら消費され、だから奥田民生「イージュー★ライダー」はあれくらいあやふやで慎重な歌詞運びになってるんだなあとおもったのだけど、それからさらに20年が経ったいま、そういった過去をすべて理解しているおっさんが作ったアイドル歌謡のなかで、虚構かとおもえるほど演劇的かつ身体性を伴った形で再現されているのはスゴイ話だとおもう。
そういう話を80年代や90年代の日本のロックについて書いたときに傍らで考えたのだけれど、さすがに話が広がりすぎるのでそのときは書かないでおいたのを思い出したりした。
それでタイトルの話に戻るのだけれど、上記の記事を書くので取り上げたミュージシャンや周辺の音源を集中して聞いたりしたのだけれど、初期の尾崎の楽曲はいま聞くとずいぶん明るく、けっこう無邪気な物語を歌っていたんだなーという印象があり、逆にこれほど無邪気だったからこその後半期なんだろうかと考えたりもした。そして、無邪気な若者の熱いロックンロールとして理想的なまでな魅力はあり、これはこの時代にしか出せなかった魅力なのかもしれないとおもったりもした。
増田を読んでブコメしようとしたんだけど100文字じゃ収まらなさそうなので、ためしにブログを書いてみたら意外に長くなって驚いた。それにしても印象論だな。
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追記
増田ですでにこういうレスもあった
尾崎の時代は自分vs社会が鬱屈のはけ口になっていた
https://anond.hatelabo.jp/20190214095129
今の時代は鬱屈がある場合自分vs自分と捉える傾向が強い
多分転換点は2000年頃
doragon ashのviva la revolutionは革命を歌いながら、それは社会への働きかけを歌ったのではなくて自己変革を通じて同世代が連携し
ともにこの社会を歩んでいこうというメッセージだった