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表参道で働くシニアのブログ

室町から江戸の名物をnendoが見立てた「information or inspiration?」展(ややネタバレあり)

六本木のサントリー美術館で「information or inspiration?」展を見てきた。

副題に「左脳と右脳でたのしむ日本の美」とあるように、1つの美術品について2通りの楽しみ方を提示するというコンセプトみの強い展示。Casa Brutusのサイトが掲載している、おそらく内覧会ベースのレポートが雰囲気としてはわかりやすい。

【追記】当初に貼ってたカーサブルータスの記事(インターネットアーカイブ)が見れなくなってたので美術手帖に貼り替えました。

bijutsutecho.com

このレポートにあるように、左脳(information)を刺激する白いルートと、右脳(inspiration)を刺激する黒いルートに分かれていて、ふだんなら綯い交ぜとなっている理性と感性を分離させ、同じ作品を別の見方で繰り返し鑑賞することになる。

この記事では先に黒ルートを紹介しているけど、自分と同じタイミングで入場した客もみな同じように自分も含めて黒から回っていた。まず何もないところで自分の感性のみで鑑賞し、その上でどのような作品なのか情報を入れて答え合わせがしたいと誰もが思うのだろう。

美術品を目の前にした時、鑑賞者の感じ方は2通りある。ひとつは作品の背景や制作過程などの情報を知ってから理解する左脳的な感じ方と、なんの手引きもない状態でただ素直に心が揺さぶられるような右脳的な感じ方があるのではないか?

それは自然な発想だが、ただ黒で不思議に思わせて白でネタバラシするとか、黒で広げた風呂敷を白で回収するというだけには収まらないものも感じた。

まず、白ルートは(黒ルートにはない)解説があるとはいえ、それが詳細すぎる。すべての作品に対して、ふつうの展示の作品解説の数倍、あるいは数十倍の文字量が、壁面にたくさん書かれている。こうなると、何が重要な情報なのかがわからなくなる。過ぎたるは及ばざるが如し。

たとえば《蓮下絵百人一首和歌巻断簡》では、俵屋宗達の下絵で本阿弥光悦の書によるものなので、作品の解説に加えて、それぞれの作者の略歴がある。ここまではわかる。それに加えて、この断簡に載っている和歌の作者についても解説があり、さらにその横には百人一首がすべて掲載され、断簡に掲載されている2首にだけ色が付けられている。

一方、黒のルートでは、作品に情報が付随しないだけではなく、作品そのものの鑑賞も大きく制限されている。同じ作品を2ルートから鑑賞するため、基本的に展示台に納められた作品を白黒それぞれの通路に空けられた窓から鑑賞することになるのだが、黒ルートの窓は妙に小さかったり、場所がおかしかったりするし、ものによってはレプリカだったりする。

最初の《切子 蓋付三段重》からして、作品そのものではなく、ガラスの切子を透過した光と影のみを鑑賞させられる。作品の3番から10番まで香合や香炉など「香」に関連した作品が並んでいるが、白ルートならその全体を見ることができるのに対して、黒ルートでは一部分だけが切り取られるような大きさの窓しか空いていない。

黒ルートは万事がそういったかんじで、とてもじゃないが「ただ素直に心が揺さぶられる」ようにはならない。なぜこのように展示されているのか? それを考えるようになる。そして白ルートでは、黒ルートで魅せられた断片が何を切り取ったものだったのかを、壁面の作品解説や、ようやく見ることができた作品の全体からうかがい知ることになる。

作品はすべてサントリー美術館の所蔵で、室町から明治初期までの書画骨董、茶席で使われるような道具が多く出ていることもあり、これはnendoの佐藤オオキさんによる一種の見立てというようなものになるのだろうかとおもった。切子であれば光と影、下絵のある和歌色紙であれば二次元と三次元(2.5次元?)といったように。

そうなると、あらためて黒ルートを回ってみたくなる。それで気がついたのだが、基本的に黒ルートでは作品を見せるために展示するということがされてないにもかかわらず、2つだけ白ルートでは解説にも掲載された作品の大切な部分を見ることができず、黒ルートでのみしっかり鑑賞できる。ひとつは本阿弥光悦《赤楽茶碗 銘 熟柿》でこれはわかりやすい。もうひとつは敢えて書かないけど、気づいてなるほどなあとおもった。

コンセプチュアルな展示なので、そんなにバカみたいに混むとは思えないけれど、鑑賞できる範囲が限られているので人が多いとどうにもならなそう。6月2日まで。