in between days

表参道で働くシニアのブログ

Facebookで着飾り、Twitterで承認欲求を満たす日本人ばかりではない

こういう記事が話題になっていた。

ぼくのFacebookとTwitterの使い方は、ここに書かれているのとまったくの逆で、言いたいことはだいたいFacebookに書くし、Twitterには見たウェブサイトのよさそうな一節を引用して流すみたいな感じで、かなりよそ行きな感じになっている。

同様に着飾らないFacebookの使い方をしている何人かの知り合いはこれに賛同してくれる。そして、まったく理解できないという人もいる。Facebookに何も書けることなんかないという。逆に、彼や彼女の言っていることのほうが僕にはまったくわからない。

けっきょくこれはどちらかが正しいということではなくて、人には2種類いる、ということなのではないか。

  • Twitterのほうが自由に書けるという人と、Facebookのほうが自由に書けるという人が、世の中にはいる
  • おそらく(日本においては)、前者のほうが圧倒的に多い(あるいはネットにおいて声が大きい)
  • だいたいにおいてお互いに相容れず、お互いが何を問題にしているのか理解できない

ソーシャルメディア時代の相互不理解の問題である。悲しいことだ。この2年くらいずっと「Facebookはリア充ツール」と書いてあるのを見るたびに、まったくリア充的に使ってない人間もいるのになんでそう一方的に決めつけられるのかじっと手を見るみたいになってて、もうそろそろ飽きてきた。とりあえず1年くらい前に書いたのをリンクしておく。

そういう機能的なことが知られているかどうかに関係なく、やっぱりFacebookは書きにくい、という声もあって「ひとはなぜプライバシーコントロールできるFacebookより、ほとんど何もできないTwitterのほうが自由で発言しやすいと感じるか?」問題、ひいては表題に書いたような「いいひと」問題をしばらく考えていた。

ひとはなぜフェイスブックで「いいひと」を演じてしまうのか問題 - night and sundial diary