前回のエントリー(3月16日の上記記事)を後から読み返して心配になったんだけど、なんだかわけがわからいものになっちゃってなかっただろうか? 突然「夏の海岸から飛び立った天使は……」なんてはじめられて「いったいどうしちゃったの?」ってふうじゃなかったかな? 大丈夫でした?
そもそも「天使たちのシーン」って、やっぱすごく名曲なんだけど、じゃあ「何について歌っているのか?」と訊かれるとちょっと考え込んでしまう。全体が抽象的な散文詩で出来ていて、それは「天気読み」あたりもそうだけど、「天使たちのシーン」の方が曲が長くて歌詞がたっぷりあるだけにヒドイ。
小沢の曲は、とくにセカンドアルバム『Life』の曲なんかほとんどがそうだけど、絵画的というか映画的というか、どういう場面でどういう風景でということが聴き手にパッと伝わって、頭の中でひとつのシーンが鮮明に浮かび上がる。それが「天使たちのシーン」では、いくつもの断片的な光景が泡のように浮かんでは消えていき、まるで遠い昔の出来事をぼんやりと少しずつ思い出しているようだ。そして歌詞の中で一人称と三人称が交錯し、視線がひとつにまとまっていない。
小沢自身の視点、小沢の姿を客観的に描写する第三者的視点(=天使?)、そしてその全体を垣間見れるリスナーの視点。この曲にはその3つの視点の間を曲が自由に移り変わりながら全体としてはゆるやかにゆるやかにシーンを晩秋から冬へと移していき、10分かけてその三者をかなりの高みで鉢合わせにさせる。そこがこの曲のピークになっている。
しかし、クライマックスはそこではなく、やはり最後の最後にリスナーに強い印象を与える「神様を信じる強さを僕に」の一節にある。このフレーズで読者をはっとさせておいて、小沢自身はまるでそんな発言はなかったかのように「音楽に、耳を傾けている」。そして、第三者の視点は小沢と重なり、つまり天使=小沢となって音楽に耳を傾けている。リスナーもやはり同じように音楽に耳を傾けている。
というようなことを、先日のエントリでは書いたのですが、わかりにくかったかもと思い、ここに補足してみたまでです。その場で思いつきながら書いた内容にしては、けっこうよくできた考察だなあと思ったり思わなかったり。なお、思いつきと言えば、小沢が信じる「神さま」っていうのは=賑やかな場所でかかりつづける音楽、そのもののことだったのではないだろうか?
なんて思いつきでやっぱ書き散らしてしまったわけで、いや申し訳ない。というかここはそういうブログなので、犬にでも噛まれたと思って諦めて最後までお付き合いいただけるとたいへん嬉しく思うます。そいでもって、ついでにロクジェに遊びに来てもらえるともっと嬉しいです。