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表参道で働くシニアのブログ

白田秀彰総統演説「悲しみを怒りにかえて立て!ネットワーカーよ!」

白田さんがギレン・ザビの演説をインスパイヤした原稿を読んでるなあ、と思ったら早くも公式サイトに上げられていた!

私たちネットワーカーは、私たちの声を政治の場に届ける方法をもたなかったために、著作権問題のみならず、コンテンツ規制、通信放送政策等において、声の大きな人たちに、いつも譲歩させられてきました。これは、すでに私たちが敗北していることを意味しているのでしょうか?

違います。これから私たちの活動は始まるのです!

声の大きな人たちに比べて、私たちネットワーカーの意見や要望など、草むらを飛び交う蚊の羽音くらいのものでした。それにもかかわらず、私たちネットワーカーが、さまざまな新しい価値を生み出してこれたのは何故でしょう? それは、私たちの夢や希望が、テクノロジーの発展、とりわけインターネットが可能にした新しい情報流通のあり方に沿ったものだったからです。これは、私たちネットワーカーにとっては、明らかなことです。

でも、そうしたテクノロジーが可能にした新しい表現手法は、ときとして既存の法律に抵触しました。それゆえ、ネットワーク文化は、主にサブ・カルチャー、アンダーグラウンド・カルチャーとして発達してきたのです。こうしたネットワーク文化は、少なくとも私の見方では、正統文化と同等の価値をもつものですが、それを「表」の文化として取り扱おうとするとき、しばしば正統文化の側からの法律や道徳を理由とした非難をうけたのです。でも、ネットワーカーが生み出してきた表現や文化が差別される理由はありません。

私はこうした主張を長年してきたのですが、相手にされてきませんでした。何故でしょう?

新しい環境において、社会を主導するのは、その環境をよく理解する人たちであることは歴史の示すとおりです。そうであるならば、ネットワークに関する統治の問題に、ネットワーカーが関与できないことは奇妙なことです。私たちネットワーカーは、電話線を使って文字が送れるというだけの時代から、さまざまに創意工夫し、徹夜し、絶食し、感電し、半田ごてで火傷し、今日の豊かなネットワーク文化を築きあげてきたのです。

かつて、多くの先人が、ネットワークが私たちの社会を変革すると夢見ました。しかし、現実世界で声の大きい人たちは、ネットワークが現実社会の一部分として、これまでの規範に従属すべきであると主張します。そうしてネットワーク文化を現実社会の法や道徳の観点から「悪いもの」として扱ってきたのです。法律が理由となって消えていった、いくつかのアプリケーションやサービスを思い出してみてください。それらのアプリケーションやサービスを作り出し、利用してきた人々の夢や希望は、もとより存在してはならなかったのでしょうか? 無駄だったのでょうか?

ネットワーカーのみなさん、声を挙げましょう!

もはや、私たちネットワーカーは、ばらばらの少数者ではありません。ネットワークを頼りにし、大事に思う私たちの意見こそが、ネットワークに関する法制度を導く必要があると思うのです。

MIAU : MIAU 設立発表会講演録(1) より、強調は引用者による

「半田ごてで火傷し」!!!!!11111ぬぬぬぬぬ