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表参道で働くシニアのブログ

タガが外れた

Fujimi Fuji view field in the Owari province (part of the series Thirty-six Views of Mount Fuji, no. 40)

国がオリンピックを開催してからこのかた、大型イベントだとか個人の行動だとかについてコロナウィルス感染防止の観点からの判断基準が壊れてしまった。断固自粛派に対して経済推進派がいるというような大きなくくりがあるならまだしも、ひとりひとりがぜんぜん異なるオレオレの基準で是非を語りはじめ、親しい友人の間ですらその感覚を共有することができなくなっている。

おおよそ自分に親しみがあるジャンルについては「これこれこういうことだから◯◯は実施してもいいのではないか?」と擁護しながら、自分が興味ないジャンルについては「これこれこういうわけだから✕✕に参加するのはダメだ!」と否定する。そんなやりとりがSNSで観測できる。

甲はAを擁護してBを批判し、乙はAを批判してBを擁護する。それぞれに理屈があり、聞けば「ああもっともだ。なるほど」とおもう。そんな声を友達の数だけ聞いてるだけでもこんがらがってくる。

そして困ったことに、これから次々続々とさまざまな催しが企画され、実施の是非をみんなが語りはじめる。そのたびに自分のなかの基準に照らしたり、過去の判断を思い出したり、いやそのときとは感染状況が違うからと基準を修正したりしなくてはならない。たいへん面倒であり、SNSに断固としたエントリーを書きつづられているのを見ては自分の基準も揺らいでいく。

そんなこんなで自分内の基準がいまひとつしっくりきてないため、必要以上に断固とした姿勢を示そうと、存外にヒステリックになってしまうところが厳しい。なにかにつけ「絶対に許せない!」みたいなことを言いがちで、雰囲気はギスギスしてくるし、自分の心もすり減ってくる。自分や身内がコロナに罹患して困っているとかならまだしも、第三者が実施するイベントの是非に頭を使い心をすり減らして友達との関係がギスギスしてくるのは何か間違ってないだろうかか?

何より、それがこれから延々と続くのだ。そのたびに「許容するか」「批判するか」をジャッジしなければならない。カードを次々と見せられて何が書いてあるかをどんどん答えていく瞬間判断力テストを無期限でやらされているようなものだ。はいこれは? 「許せる」「許せる」「許せない」「許せる」「無観客じゃないから許せない」「感動するから許せる」「県境をまたぐ移動を伴うから許せない」「国境をまたいだ移動は?」「……やっぱオリンピックってアカンやつやった?」というかんじで過去にさかのぼって悩みはじめることもある。

これはもうダメだろう。こんなことずっと続けるのかとおもうと気が重い。何より心理的な負担が大きい。これはもう個別にジャッジすること自体を止めたほうがいい。

ということで個人的に、あくまで個人的なものとして、今後の催しに対する明快なスタンスと基準を決めておくことにした。

すなわち「すべて許す」ことに、私はした。

誰がどんなことをやろうとも私はすべて許容する。スポーツイベントを開催することも許容する。ロックコンサートに参加することも許容する。飲みに行くのも許容する。帰省するのも許容する。きっとみんな最大限の感染防止に留意したうえで実施しているのだろう。オリンピックだって「感染防止に留意したうえで実施しており、批判の指摘には該当しない」みたいなことを言ってたではないか。ほかの市民がそう宣言することを誰が妨げられるだろう。あなたが「留意している」というなら留意されているのだろう。なんというか、無駄に性善説だなというきがする。

だってさ、もうこうなったらいちいち腹を立てたり、ひとつのイベントを中止にしたりしたって、感染状況そのものがはたして大きく改善するかなあっておもうもの。

状況を改善させるのは、国民全体の行動のベースとなる部分での自粛、つまり特別なイベントの可否を判断するところではなくて、日常的に外出を控えて市中の人出を減らしていく、そういう日常的な自粛を粛々と延々と続けて感染機会のベースとなる部分を下げていくことが必須であり、たまの大規模イベントの前にやることはあるよなあと思うのだけれど、そういった日常の自粛に関しては、もうすっかり国民のタガは外れてしまったように見える。

タガが緩んでいるうちは締め直すこともできるけど、外れたタガは外れっぱなしだ。もう我が国ではタガを締めることはできない。その最後のタガを外したのがオリンピックだろう。だって「オリンピックが実施できたのに、自分が帰省できないはずはない」ってふつうみんな考えるよね。オリンピックを実施するためにいろいろな強弁がされたけど、それは国民が自分勝手に行動するための言い訳にそのまま流用できるし、すでにそういうコピペも流通している。自粛しない言い訳のネタ元を国自身がばら撒いてしまったんだから、これで今後の自粛要請に効力があると考えるほうがおかしい。

人々はもう二度と自粛しないだろうし、市中の人出は減らないだろう。感染機会のベースはむしろ増え続けるだろう。だから特別なイベントひとつひとつに目くじらを立てても仕方がない。これは諦念なのだろうか。性善説の諦念である。諦めることで心の平静を得る。仏の教えっぽさがある。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

談志百席「平林」「たが屋」

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  • アーティスト:立川談志
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P.S. 念のために書いておくけれど、この記事に書いているのは「行動の指針」ではなく「第三者の行動に対する可否判断の指針」であって、帰省したりイベントに参加したりといった行動を推奨するものではないです。自分の行動の指針はとくにここに書かないけど、基本的に在宅のリモートワークのため平日はほぼ外出しないということもあって、もうちょっとストイックなかんじです。

Fujimi Fuji view field in the Owari province (part of the series Thirty-six Views of Mount Fuji, no. 40) by Katsushika Hokusai, Public Domain, Wikimedia Commons