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表参道で働くシニアのブログ

焼却炉の魔術師にはなりたくない

むかしの学校にはだいたい焼却炉があって、掃除時間になると各教室からゴミ箱が運ばれてきて、学校の敷地内で燃やされていた。職員室からは印刷しそこなったガリ版のプリントとか大量にあって、リヤカーで運ばれてきてたようなきがする。高校のころ、自分が友人に借りて授業中に盗み見てて教師に取り上げられた大友克洋『童夢』が、その後そのリヤカーで運搬されているのをたまたま焼却炉か職員室かの掃除当番だった別の友人が見つけて確保してくれたことがあった。各所にご迷惑をおかけしております。

そのうちゴミを勝手に燃やしてはいけないということになり、いまだったら温暖化とかそういう切り口になるだろうけど、当時はダイオキシンが問題になったのではなかっただろうか。いまの学校ではプリントを燃やしたりはしないようだが、漫才師の博多大吉さんが中学のころにはまだあって、かなり昔のバラエティ番組で掃除時間の自分は「焼却炉の魔術師」だったとトーークして話題になっていた。いわく「あいつに燃やせないものはない」かららしい。

ところで話は変わるが、昨年の夏ごろ、東京オリンピックに関するいろんな出来事が炎上した。それぞれ何がどんな理由で燃えたかにはここではあまり関心がなくて、たぶんほかのタイミングだったらそんなに燃えなかったであろうことも、いざオリンピック関連ってことになると、もう焼却炉の入り口でスコップ持って待ち構えてる一団がいるのではという勢いでツイートが盛り上がり、それを追って報道も過熱した。

あれは何なんだろうなあと、あれから考えている。炎上するときとしないときにはどういう違いがあるんだろうか。ネット由来であるということは集合知を総合した結果として燃やそうってなってるってことなんだけど、どういうメカニズムがあるんだろうか。

自分も昔は焼却炉の掃除当番をしたことがあって、よく晴れた日が続いたときなどは、火を入れてないのにプリントの山を乗せるだけで勝手に火が付いたりすることもあった。種火が残ってたんだろうとおもうが、今から思うと安全性のうえですごい問題があるな……。

ともあれ、ネットにもきっと種火がある。種火に燃料を供給しているのはたぶんふつうのネットユーザーだ。それもあまり悪意のないでもよく知らないことに自分なりの考えとかを言うときってふつうにあるとおもう。それがネットだからね。オレにだって言わせろっていうのがネットの基本だろうとおもう。でも、なんかそれってもう自由な意見の表明というメリットより、種火の温床って側面のほうが場合によっては大きくなっているんじゃないかってきがしている。要は注目の総量ってことが種火に火を付けるためには必要で、それは気温とかそういう要素として考えられそう。別に燃やしたいとおもってなくても、燃えそうな案件に雑になんか言うだけでその案件の注目度が少しあがる。そうやって注目度が華氏451度より高くなれば、その話題は自然発火する。

何にせよ自由に発言する権利はネットなんだから誰にだってあるはず。あなたにもわたしにもある。だけど、もうなんかぼくは、焼却には加担したくないなとおもった。雑な発言がもとで炎上するわけじゃない。だけど雑な発言があつまって注目度が上がれば発火しやすくなる。注目度を上げることに、もう何にせよ加担したくないなあとおもった。ネットの自由さから降りたいような気持ちというか。なんなんだろうか。あまりまとまりがないけれど、とにかくもう焼却炉の掃除当番はやりたくない。