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表参道で働くシニアのブログ

バイラルメディアを企業が運営する時代、ネット利用者に必要なことは「うそはうそであると見抜ける」ことではなく「うそはうそであると見抜かないメディアを見抜ける」ことではないだろうか

バイラルメディアについては、少し前から何か書きたいとおもっていたんだけど、論点が多すぎるのでどこから手をつければ、と躊躇しているうちにあちらこちらからこの週末にすごい勢いで話題になっていて、完全に出遅れてしまった。

今月の前半にはこういう記事も出ていて、いま確実に「バイラルメディアはクソか? それともゴミか」の議論が盛り上がっているようだ。

バイラルを重視したメディアは、従来のニュース型メディアと似ているようで大きく違う

海外のBuzzFeedやUpworthyといった本家バイラルメディア(Huffington Postを含めることもあるようだ)には、それぞれそういった運用形態になった由来があるようだけど、国内のバイラルメディアについては、タイムラインやニュースフィードに流される記事を見る限り、個人のブログメディア(とくに海外ニュース翻訳サイト)、あるいは、まとめブログ、まとめサイトといったあたりの手法を流用しているように見える。

しかし、バイラルメディアの多くは企業が事業として運営されていて、決して個人サイトやCGM(UGC)のようなものではない。そういった意味では、新聞社や通信社、各IT系ニュースサイト、ネット系の各社ニュースサイトなどと同じくくりのメディア事業として捉えてもよさそうなものであるが、やはりそういったニュースサイト群とは断絶があるように感じている。

その理由、どういったところで断絶を感じるのかを、バイラルメディアを考える手始めとしておもいつくままに書いてみたい。

「ニュース性」を問わない

従来のニュース型メディアでは、当然のように「ニュース」であるかどうかを記事掲載の判断基準とする。ニュースであるかどうかというのは、そこに新規性があるのかどうかということだ。どれほど面白い話であっても、何年も前に報道済みの出来事をそのまま記事にすることはありえない。

しかし、多くのバイラルメディアでは過去に話題になった動画をそのまま再シェアするだけの記事なども掲載しており、記事の新規性を重視しているようには思えない。どれほど知れ渡った話題であっても、その記事によって初めて目にするという人たちは必ず存在する。客観的に見て新規性がなくても、初見の人たちによってシェアが広まれば問題ないのだろう。

タイトルに「その記事で最も重要なワード」をあえて含めない

経験ある方も多いだろうが、ソーシャルメディアに流れてくる記事のタイトルだけを読んで「いいね!」したり、はたまた怒りに打ち震えたRTをするひとがけっこういる。逆に言うなら、ソーシャルにおいてタイトルだけで意味がわかってしまっては、読者はサイトまで来ないうちに感想を語りはじめてしまうので、ページビュー的に意味がないのだ。

ソーシャルメディアにおいて、タイトルはむしろ「【必見】すごい●●がすごいことをしたらホントにすごかった!」といったアオリの役目を果たしてくれたほうが役に立つのであり、興味を引いたひとが「これどういうこと?」とリンクをクリックしてくれて、はじめて成功ということになる。

一方、従来のニュース型メディアでは、それこそ新聞で培われた逆三角形の法則が活きている。つまり、最も重要なことはタイトルに書かれているべきなのだ。その記事で最も重要なワードを「●●」などと伏せ字にしたら、デスクに叱り飛ばされるだろう。

タイトルとSEO、またはバイラルメディアはいかにしてSEOを考えなくてもよいのか

もちろん、タイトルに含むワードを軽視するとSEO的に効果が薄くなる。これはおそらく偶然ではなく、タイトルには重要なワードが書いてあるものだ、という従来型メディアの特性に則ってGoogleがHTML構造を評価をしているため、title要素がSEOで重要視されることになっているのだろう。

しかし、バイラルメディアは「バイラル」すればいいのであって、検索エンジンからの流入は二の次とし、記事の形態をソーシャルに特化させることで、逆にSEOコストの軽減化を図っているということも言えるのかもしれない。

取材や検証のコストは最小限におさえる

Hagexさんのブログで、かの有名な「ハーバード大学の図書館」案件を記事にしたバイラルメディアが取り上げられていた。

佐々木俊尚氏編集長の旅ラボ・言い訳しながらデマエピソード「ハーバード大学の図書館落書き」を取り上げる - Hagex-day info

しかし、この「言い訳しながらデマエピソードを取り上げる」ことすらオリジナルではなく、4カ月前に前例がある。

ハーバード大学の図書館にある20個の落書きがエリートすぎると世界中が称賛 | CuRAZY

さらに、エイプリルフールに気付かなかったという例もある。

乗ってみたいけど怖い! 床がガラス張りになっている飛行機ができるぞ! | GOTRIP! 明日、旅に行きたくなるメディア

このように、自分たちがこれから取り上げようとしているネタが、事実であるのかどうなのか、現在どうなっているのか? などを調査したり取材することは、あまりないようだ。このため、そこに書かれていることが事実かどうなのか、その検証コストは読者に転嫁されていると言ってもよいだろう。

日本のインターネットには古来より「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という警句があるが、これはそもそも誰が何の目的で書き込んでいるかわからない匿名掲示板の書き込みについて述べられたものだ。

さらに、個人が運営するブログメディアや、ユーザーが自由に作成するCGM(UGC)において検証コストがかけられていないのも仕方ない側面はある。しかし、企業が事業として運営するメディアにおいて、検証コストをかけないで読者に転嫁する、という姿勢は正しいのだろうか?

ある意味で、正しいとも言える。

検証コストはただの「コスト」である

記事を検証することで、リリースまでに時間がかかってしまう。なるべく短時間に多くの記事を出し、少しでもバイラルしてほしいメディアにおいて、記事の制作時間が長引くことはただのコスト高になる。ましてや、検証の結果、デマであるということがわかってしまうと、その記事は出せなくなる。コストをかけて執筆した記事がボツになるほど無駄なことはない。

ではなぜ、旧来のメディアは記事を検証するのか? それは自メディアの信頼性を向上させることで、ブランド価値を高め、メディアの名前を覚えてもらって、名前を看板に読者が呼べるようになることを目指すからである。さらに言うなら、各メディアに編集方針などがあるのは、メディアごとの独自性を発揮し、他社との差別化を図るためでもある。

念のために書いておくと、これは偏向(検証の姿勢が問われている)や、飛ばし(検証できないことをスクープとの天秤にかけてリスクを取り、失敗したケース)とは違うもので、そもそも検証コストをかけないということについて考えている。

しかし、ソーシャル上でたまたま目にした記事に多くの人が興味をもって訪ねて来てもらおうという流入モデルに頼るのであれば、メディアとしての信頼性や独自性、差別化などはそれほど必要がないのではないだろうか。バイラルメディアはサイトの作りにしても無個性なところが多いようだが、個性はそれほど必要ないのかもしれない。

F<E:Fact(事実)よりもEmotion(感動)

ニュース性のある記事において、おそらく多くの記者が注意されることのひとつに「お前の考えを書くな」ということがあるだろう。といってもメディアの性質によって差があるところで、たとえば新聞社や通信社のような報道機関であれば、まず「事実(ファクト)」を積み上げて記事を構成することが徹底されるはずだ。

そうでない雑誌的なメディアであっても、記名のルポやエッセイならともかく、ある出来事を伝えようとするなら、まずその裏付けとなる事実を中心にしないと説得力をもって語ることはできない。このあたりは記事の検証のところもで述べたとおりだ。

ところがバイラルメディアでは、ある動画にどういった背景があるかといった小さな事実の積み重ねよりも、それが「泣ける」かどうか「感動する」かどうかを強くアピールし、感情(エモーション)に直接語りかける傾向があるように思える。

事実(ファクト)より感情(エモーション)を重視する、F<Eの不等式が成り立っているのが、バイラルメディアと言えるのではないだろうか。

検証コストをそれほどかけていないメディアに対して、ネットユーザーはどういう態度を取るべきなのか?

従来、ネットのリテラシーとして、個別の記事が「うそ」であるかどうかを自分で検証できる力が問われてきた。

しかし、どんな場合でも全部が全部を検証していては身がもたない。いちおう企業が事業として運営するメディアであれば、検証コストをそれなりにかけているはずだから、ある程度は鵜呑みにできるのではないか、という姿勢で私たちは各種のネットの記事に向かいあって来たとおもう。

ところが、今や企業が事業として運営しているにもかかわらず、検証コストをそれほどかけないという、新しい種類のメディアが登場しはじめている。これに対してできることは、検証コストをどの程度かけているメディアであるかを、判断することだろう。記事ごとの検証ではなく、メディア単位でのレーティングが必要になるのかもしれない。

取材・編集・検証のコストのかけかたをメディアに従事していないひとが把握することは可能なのか?

とはいえ、それは簡単にはできないのではないかという気もしている。というのも、従来のメディアにおいて、その取材をどのように行うか、編集者はどういった仕事をしているか、どの程度の作業をしていれば検証コストをかけたと言っていいのか? そのあたりは事業者のブラックボックスと化している部分であるように思えるからだ。

記事の読者が、ネタの面白さや文章力とおなじように、その記事にかけられている検証コストや編集力の良し悪しを意識するようには、なかなかならないだろう。

たとえば、ある非常につまらないインタビュー記事があったときに、インタビューされた人が詰まらないとか、インタビュアーの技量がないとか、記事を書いたライターが下手だ、といった批判はあるだろうが、「ちゃんと編集されてないな」という感想をもつ人はまず、メディア業界のひと以外にはいないのではないだろうか。

「ちゃんと検証されている」とか「ちゃんと編集されている」とはどういった状態なのか、おそらくメディア業従事者であれば体感として持っているであろうそういった専門性のある知見を、一般のネットユーザーや、新たにメディアを立ち上げようというマーケッターにも理解できるような形で共有していくことが必要なのではないだろうか、という当初に想定していたのはまったく違った自己批判めいた結論でもってこの稿を終わる。