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表参道で働くシニアのブログ

「日本人のリズム感は西洋音楽のリズム感と」で書き切れなかった音楽の自由さだとか永遠だとか

ちょうど4年前の12月に書いた「日本人のリズム感は西洋音楽のリズム感とはまったく異なったものだっていうことなので、じゃあそれはそれとしてビート感ってどうなんだろう? とくに黒人音楽との関係において」という記事が雌伏のときを経てなぜか急にバズったようで、急すぎてビックリしている。

何か言いたくなるようなネタだったのだろう。たくさんのブックマークコメントをもらった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/mohritaroh.hateblo.jp/entry/2013/12/08/001426 

なかでもいちばんスターを集めているこのコメントがおもしろかった。

日本人のリズム感は西洋音楽のリズム感とはまったく異なったものだっていうことなので、じゃあそれはそれとしてビート感ってどうなんだろう? とくに黒人音楽との関係において - in between days

「黒人の多くは時計の秒針を裏で考えるんだよ、"チッ"って聞こえたらそれは既に2拍目なんだ、日本人は1拍目だろ?」って友達の黒人のドラマーが言ってて面白かったのを思い出した。こういう所からも違いが出るよねえ

2017/12/07 10:08

これに近いはなしで、リップ・スライムのだれか(おそらくSUだった)が、歩くときに「1」で足をあげて「2」で着地するようにしてる、そうするとヒップホップのリズム感が自然に身につく、といったことテレビで話していたように覚えている。

音が鳴ってないのに拍があること

ところで「"チッ"って聞こえたらそれは既に2拍目」っていうのはおかしくないだろうか? じゃあ1拍目はどこに行ったのだろう? なにも音がしてないのにそこに1拍目があるって変じゃないだろうか?

もちろん変ではない。おそらく、音が鳴ってないタイミングを休符で勘定してより細かく「ンチッ」と表ウラ2拍で感じているということなのだろう。よくわからないけど、たぶんブラックミュージックはそういう感覚のうえに成り立っている。

一方で、自分自身の感覚として、音が鳴っていないところに拍がある、というのは頭ではわかるのだけれど、体感としては自分のなかにないものだというかんじがする。先に書いた「2で着地する」ことを音楽聴きながらときおり思い出して歩いてみるのだけど、けっこう難しくてアタフタってなる。つまり、バックビートがうまく取れないってことなのだろう。

というようなギャップというか矛盾、自分が楽しいと感じていてもっと聞きたくなるような種類の音楽(黒人音楽とその影響下にあるポピュラーミュージック)と、それを身体感覚として楽しめているのかどうか? がうまくマッチしていないもどかしさが常にある。

下手と自由の境界

こういうもどかしさに対抗するアプローチが2つある。ひとつはバックビートの感覚をがんばって習得することだ。

実はそれなりには学習しようとしてきた。もう何十年も前だけど、若いころにロック系のコンサートに行くと、たとえば「アンコール」のコールで「ア」と「ル」という頭の拍で手を叩く客がいるライブはダサくて、ふつうは「コ」と「ルのあとの無音部」で拍子を取るだろ、みたいな雰囲気があり、慣れてくるとそのウラで拍手をして悦にいったりするんだけど「このまえCharのライブに行ったんだけど、客がふつうに16のウラでアンコール要求しててビックリした」みたいなことを聞いて「すごいねー」なんて言ったりした。とにかく裏拍をたくさん取れるのがエラかった。スタジオで働いている知人は、音楽を聞くときにずっと1から16まで数えてるって言ってて、いやそれは数えらんないだろうっておもったりした。

もう一つのアプローチは、音楽っていうのは「音を楽しむ」ものだから、楽しめばいいんだよ! 自分の感覚でビートを感じればいいのさ、みたいなよく言われるような「音楽の自由」を強調するアプローチで、とはいえ音楽にズレてるのに「これが自分のビートだ」っていうのはなかなかいいにくい。単に下手なだけじゃんって言われたときに「下手」と「自由」の境界はどこにあるのか? みたいなアートの概念のはなしになってくるし、そもそも「音楽」の「楽」は語源的に楽しむことではない。

さらに「自分の感覚のビート」が「黒人音楽のビート」とズレているのならば、自分の感じているビート感とはどういったものなのか? さらに突き詰めれば、世界のさまざまな民族が自身のビート感をポピュラー音楽に注入することでエスニックポップスやワールドミュージックが誕生しているわけで、日本でもそういったアプローチでのエスニック音楽は出てこないのだろうか?

音が鳴っていないときに拍はない

そういったことを考えていたときに、フリージャズ系のミュージシャンと能楽の演奏家がセッションするライブを見ることがあり(おそらく一噌幸弘さんや内橋和久さんのユニットではなかったかとおもう)、その前説だったか終演後だったかに、能楽を演奏する方が、能のリズム感がいかにジャズのそれとは違うのかという話をしていたのがすごく心に残ったのだ。

それが前拍と後拍で成立する非定拍な日本の伝統的なリズム感であり、話が最初に戻るけど先日来ややバズったこのエントリーにはそれがどうったものかということについてあらためて本で読んだことをもとに書いたものだ。

要するに「音が鳴っていないところに拍がある」という感覚は、西洋音楽や黒人音楽ではふつうのことだけど、日本の伝統的な音楽感では違う。音が鳴っていないところに拍はない。音楽をかじったひとは逆にヘンなことを言ってるように感じられるかもしれないけど、そういう音楽の捉え方もあるのではないかというはなしだ。

2つの拍の間の無限の音楽

音が鳴っていないところに拍がないとすれば、そこにはなにがあるのか?

そこには「間(ま)」があると考える。

間という言葉は、漫才や落語などの話芸でも重視されるように、どれくらい時間をあけるか自由に調節でき、その長短で上手い下手が分かれるし、またあえて間を外すことで面白さを狙ったりすることもできる。

つい先日の「M-1見た」という記事にも書いたけど、日本人で生まれてふつうにテレビなどで日本の大衆文化に接して育ったなら、この「良い間」と「良くない間」の感覚が身についてくるのではないかとおもえる。

一方で、休符は定拍分を無音にするもので、勝手に長さを調整できるものではない。そう考えると、間は休符ではない。

ある人が手をひとつ「パン」と打つ。次のひとが、良いとおもうだけの間をおいて次の拍を「パン」と打つ。その2つの拍の間がどれだけ取られたか、どれだけの強さで打たれたか、そういったことで2つの拍にはある関係が成立する。突き詰めて考えれば、これだけで「音楽」は成立していると考えることもできる。

究極のミニマルな音楽として、2つの拍で成立する無限の音楽。極小のなかにすべてがある。むしろ「侘び」の音楽というか。

永遠に円環し分割される無限の音楽

一方で、黒人音楽にぼくはまったく違った無限を感じる。それは永遠と分割というか。

あるひとつのフレーズ、リフ、ブレイクビーツが鳴らされたとき、それは鳴っているあいだのみ存在するのではなく、それを線分としてして含む永遠の過去から永遠の未来に向けて等伯で同じリフを無限に繰り返す数直線のようなものをイメージする。

そして、それは数直線というものがそうであるように、どこまでも分割できる。2ビートは4ビートに分割でき、4ビートは8ビートに分割できる、さらに16ビート、32ビートと、無限に細かいビートがそこには存在する。音として4つの「チッ」が鳴らされただけで、それを含む無限の長さで無限に分割できるビートの帯が立ち上がってくる。

それはむしろ終わりもはじまりもない円環となっているといえるのではないか、ということをこのエントリーに書いた。

円環(ループ)するリズムパターンの教材動画がおもしろくて、アプリとかでおんなじことできると楽しそう - in between days

三三七拍子で楽しむポピュラーミュージック

先ほど「アンコール」の拍手をどこで取るかという話をしたけれど、それについては「ボカロ曲のリズム感について書いてるブログがおもしろくて、日本のポピュラーミュージックにはリズム感があったりなかったりするのかもしれないと漠然と考えた」という記事にも書いたように、すでに表拍とかウラ拍といった世界観ではなく、「アン」「コー」「ル」それぞれで手を叩き、そのあと1拍休む、つまり間をとる現場がけっこうあるよ、というというはなしを数年前に聞いた。

これはかなり目からウロコが落ちた。つまり、三三七拍子じゃないか。

「三三七拍子って、実はエイトビートなんですよ」というはなしはまれによく聞くけど、三三七拍子はもちろんエイトビートではない。3つの拍を叩いたあとにてきとうな間を取ってるだけで、もちろんウラ拍を刻めるものでもない。

ただし、まるっと1拍分を休んで等拍に揃えれば、4拍子に合わせられる。ポップスやロックのコンサートであっても、(そこでは西洋音楽とブラックミュージックの影響下にある音楽が鳴らされているはずなのだけど)、その現場において客は三三七拍子のリズム感で音を十分に楽しむことができる。

それが、いまの日本のJ-POPであって、それが多数派で一般的になっているのではないか。そうであれば、これを「コール」のリズム感と名付けたい。という話しを以前にこのエントリーに書いた。

声に出して読みたいラッスンゴレライ、もしくは僕たちは「コール」のリズムで音楽にノっている - in between days

みんなで踊ろう

そろそろ長くなってきた。巻いていこう。音楽の現場におけるダンス感覚についてはこの記事で検討した。

『踊る昭和歌謡』に見る、同じ振り付けをみんなで踊る楽しさの系譜 - in between days

ただ、僕自身がさっきも書いたように「リズム感がかなりあやしい素人」なもので、この記事もそうだけど、ほとんどが何かの参考書を読んだことから始まっている。

とはいえ、J-POPのリズム感みたいなものについて、ここで僕が検討したようなことの可否まで含めて書いてあるような本を残念ながらぼくは知らない。

J-POPについて考えること

いわゆるJ-POPを考えようとしたときに、それは海外のさまざまなポピュラー音楽の影響を受けており、つまり西洋音楽と黒人音楽とさまざまなエスニックな音楽の混合である。また別の形で、クラシックそのものであるとか、ジャズであるとか、ラテン音楽、各種ワールド・ミュージックなどなども入ってきていて、そうやって並行輸入された無数の要素から「J-POP」は成立しており、一方でそれを楽しむぼくたちの身体感覚は西洋人のそれとも、もちろん黒人とは大きく異なっている

それを踏まえたうえで日本のポピュラー音楽がどのように成立しているのかを考えることはとても難しいように思える。小泉文夫さんの一連の業績以降、そういったことを正面から取り上げているのはこの本くらいなのではないだろうか。

J-POP進化論―「ヨサホイ節」から「Automatic」へ (平凡社新書 (008))

J-POP進化論―「ヨサホイ節」から「Automatic」へ (平凡社新書 (008))

ただし、この本にはこういう話もある。

佐藤良明はテレビ朝日「ニュースステーション」(一九九九年七月五日)に出演し、宇多田ヒカルのヒット曲と民謡を並べて提示し、その「理論的類似性」を強調したが、久米宏以下のレギュラーのキャスター陣は半信半疑の反応であった。

だれが謳った音階理論?──小泉文夫の歌謡曲論、その後 | 増田聡 ‹ Issue No.26 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース

それから15年近くの歳月が過ぎ、テレビで同じようなことを今度は演奏家自身が説明し、これにはみんなも大いにうなずいたという。

亀田音楽専門学校シーズン3を見た感想。それからJ-POPとは何か? という話 - in between days

亀田音楽学校は、これまで形式として語られなかったJ-POPを音楽のスタイルにまとまった説明を与えたという点で素晴らしい番組だと思うけど、ちょっと大げさに持ち上げすぎているキライもあるなあとおもいながら毎回みていた。後に引用しやすいテキストの形でアーカイブされていないのは残念。

ポピュラー音楽の蓄積のない国にて

めっちゃ長い記事を書いたけど、なにがしたかったかというと、4年前に書いた記事が1本だけバズって、その記事をもとにいろいろ反響があったりするのは嬉しいのだけど、その記事はそれ単体で成り立っているのではなくて、この5年くらいに書いたいくつかの記事とつながっているのだ、ということを示しておきたかったのだ。

それはもっと昔から考えていることで、自分たちが楽しんでいる音楽はしょせんはすべて輸入されたもので、根無し草ではないかという不毛感。自分たちのほんとうにエスニックなポピュラー音楽というのはどこにあるのだろうという気持ち。それはこの記事にも書いた。

若尾裕「親のための新しい音楽の教科書」と萩原健太「ボブ・ディランは何を歌ってきたのか」読んだ - in between days

こっちの記事にも、実はそういったことを書いている。そうは見えないタイトルだけど。

シナロケの名曲「レモンティー」の元ネタといわれてるヤードバーズのあの曲のさらに元ネタについて - in between days

そうだ。最近、ザ・パイレーツのベスト盤を聞いてたら、1977年当時の未発表曲として「ハニー・ハッシュ」をやってて、パブロックの文脈でそっちもありなのか! とおもったりしたのだった(この動画はもっとずっと新しそう)

などなど、「日本人のリズム感は西洋音楽のリズム感と」の記事からさらにいろいろなことを考えることができるので、お時間あるときにぜひ読んでいただけるとよさそうです。

とかなんかぶち上げたことを書いてるのだけど、近況としてはせっかくチケットを取ってもらったモーニング娘。の武道館公演の前日夜に熱を出して、推しの卒業コンサートをすっかり見そこねた余暇をここに持ってきたってかんじなんではあります。